彼岸過迄 感想
彼岸過迄 作 夏目漱石
夏目漱石が瀕死にまで至った「修善寺の大患」後に初めて書かれた作品です。後期三部作の第1作となるそうです。他の2作は、「行人」「こころ」。
タイトルの「彼岸過迄」とは、執筆が彼岸過ぎまでの間という、物語に一切関係のないつけ方。「門」と同じようなもんでしょうかね?
物語の構造としては、大学を卒業して就職活動をしている敬太郎が、いろんな人の話を聞くような感じ。人の悪事を暴くという意味では無い探偵のようです。主人公は一応敬太郎ですが、主題の主人公は後半に長い話をする「須永」でしょうね。というわけで、この物語の主人公は二人と見て差し支えありません。
彼岸過迄 (新潮文庫) (1952/01) 夏目 漱石 |
まずは、敬太郎について
敬太郎は昔から冒険譚を聞いたりするのが好きな、好奇心の多い性格でした。就職活動を行う今になっても、同じ下宿に暮らす森本の冒険譚を聞くのが楽しいようですね。しかし、好奇心が多いから何か突拍子の無い仕事をしたがるのかと思いきや、大学に行ってしまったからそのようなこともできず、堅実に生きる選択をしようとしています。
全体的に、もう少し調子外れの自由がほしかったロマンチストのようですが、習慣に縛られかつ習慣を飛び越えた場所(下町で下町らしい生活など)で生きたかったという面も持っています。そういう風に、こっちはこっちで楽しそうだとかいうことを考えてしまって、何かを決定して、痛快な気分を味わうことが出来ずに悶々と不安を抱いています。つまり、何事に限らず本気になりかけて、貫き通すことが出来なかったようです。「それから」に出てきた、ニルアドミラリのようなものでしょうか。
「どっちに行っても同じだ」と考えるからこそ、本気にならずに怠けて、そんな自分と怠けている時間を不愉快に思ってるのが、敬太郎の現状です。
ちなみに、須永も敬太郎と同様にニルアドミラリなのですが、敬太郎は須永の話には共感出来ないところも多くある、須永とは違う人間となっています。同じ遊民でも精神構造が異なり、遊民になる過程が異なっているのでしょうね。
次は、須永について
現状は、幾らでも出世の話があったりするのに裕福な家に生まれたから仕事もせずに母とのん気に二人暮らしをしています。「それから」に出てきた「高等遊民」ですね。
須永の想いは、母に対する想いと、従姉妹の千代子に対する想いに分かれています。まあ、その二つが相互に関係していたりするのですが、とりあえず二つに分けてまとめます。
母への想い
幼い頃に父が死にましたが、須永は父のことがあまり好きでなくて、だから父の顔に似てくる自分の顔が嫌だったようです。須永は死の間際の父から、「母の世話になってやれ」というようなことを言われ、「何でそんなことを言うのか?」と疑問を持ちます。母にその疑問を打ち明けたかったですが、今までの関係が壊れてしまいそうで出来ませんでした。そういう疑惑があったから、須永の母への想いは少し複雑になっていきます。
ちなみに、後にわかりますが、父に言われた不可解な言葉は、母と須永が本当の親子ではないことを示唆しているようです。本当の親子でないから、血の絆の分、親子としての絆を育むために「母の世話になれ」と、父は言ったのでしょうね。
母は、「慈母」になるために生き、そして死ぬつもりです。だから須永はそんな母を哀れに思います。しかし、母の生きる意味である自分への期待というものを知覚し、少し精神的に窮屈に感じているようです。
須永は頭が良く、学校に在籍しているときの成績は良かったそうです。そんな彼だから色んなところから仕事を斡旋されましたが、それでも動きませんでした。母を大事に想い、出来るなら母が喜ぶような立派な人間になりたいとも思っていましたが、その母への想い以外に仕事をする理由が無く、自分としては立派な人間になりたいだなんて一切思ってないので仕事をしませんでした。母への想いと自分の自分だけの希望が一致していないので行動せず、しかし母に申し訳ないという気持ちも持っています。
母は自分を愛してくれているから、自分の就職への我儘は許してくれるだろうと思っていますが、もっときつい失望を与えそうなのが結婚問題だそうです。須永には、「千代子」という許婚がいて、母は須永と千代子が結婚するだろうと思っているし期待もしています。が、須永は千代子と結婚する気はありません。須永は、「千代子を貰う気は今のところ無い、後で考える」として、その問題を先送りにして、母に失望を一応は与えないようにうやむやにしています。
須永は千代子と結婚するつもりは無いのに母に結婚するという希望を与えているのだから、「母を騙している」という気持ちが生まれ、済まない気持ちになっています。それゆえに、その不安を解消するために千代子と仲が良いようなふりを見せるために、家に遊びに行ったりしています。そして、「母に失望される」ことは自分のプライドに関わるもの。
本当の親子ではないということ、それが須永にばれることを母は非常に恐れていました。血は繋がっていても、育まれた親子の絆は絶対に切ることは出来ないと自他共に認めているのにです。
須永も、そのようなことを言われるのではないかと恐れていました。全てがわかったとき、今までの不可解なことがわかってすっきりしたようですが、寂しくなります。母が須永に千代子を勧めていたのは、本当の親子でないから血縁を求めたということで、須永の難しく考える性質にしてはわかりやすい理由となっています。しかし、全てがわかった後に母の顔を見ると、気の毒になりました。母は子供を生むことが出来なくて、自分の使命を全うしようとしているが、須永にその気が無いからその願いも散るだろうという未来の母の絶望を、須永は思い描いているからでしょうか?
千代子への想い
須永と千代子は許婚の関係だったから、幼い頃からよく交流を重ねていましたが、だからこそ須永は千代子に対して「ただの親戚」というような想いしか持たず、「異性」としては見れなかったようです。そして、千代子も同じだろう推測しています。
が、千代子は須永に「貰おう」と言われれば、貰われる覚悟は出来ていそうな様子が見られます。例えば、「嫁に決まった」と嘘をついて須永を動揺させるシーンや、ラストに須永に対して感情を露呈するシーンなどがその証拠となっています。
須永は千代子のことを愛していないと言っていますが、千代子の「嫁に決まった」の言葉で動揺しまいます。千代子は純粋であり、最も女らしい女だと思っています。しかし、千代子の行動に裏があるようにも思えて疑います。
須永は千代子が恐ろしく、もし結婚すれば千代子の純粋さの光に射すくめられ、千代子は自分に失望するだろうと恐れています。
後、鎌倉で須永は自分とは正反対の性質である高木と出会います。高木は礼儀正しく、ハキハキとしている好青年であり、活発な千代子にふさわしい男です。千代子を愛していないと思っていても、須永は高木に対して嫉妬のようなものがあり、高木を憎んでしまいます。
不快感は嫉妬なのかと考え、抑えようとして煩悶します。嫉妬心は確かに存在しますが高木に対して競争心は出てこず、そんな争いをしてまでも所有したいとは思っていません。そして、それは、人生の何事においても。高木が加わることによる自分への奇妙な力は、決して競争心ではない怪しい力です。それは、「このときにはこう動くものだ」というような小説のような意味なのでしょうか?
つまり、須永は本心で競争しようとしているのではなく、とりあえずそういう状況になったから少し競争のようなものをしてみようかと考えたのかもしれません。
本能を理性で抑えるのは苦痛です。しかし、理性を無くして本能を露出することは、理性が本能に負けたと認めたことになるので、それも嫌だと考えています。本心から嫉妬しているようですが、本心から千代子を愛しているのかわからない。
つい千代子の前で「高木」の名前を出してしまったところ、千代子は一変しました。千代子は須永が高木に嫉妬していることを知っていて、「自分を愛さないのに嫉妬して、他人(高木)に失礼を与えるのは卑怯だ」という理由で、須永に「あなたは卑怯です」と言い放ちます。
須永の性質
須永は、世の中と接触するたびに内へとぐろを巻き込む性質であり、一つ刺激を受けると考えて不安になり、死ぬまで自分で自分を苦しめてしまいます。これを抑えるためには、外にある物を頭へ運び込むために眼を使うのではなく、頭で外にある物を眺めるために眼を使わなければならなく、たった一つでいいから、自分の心を奪い去るものがなければなりません。しかし、そう簡単に見つかるものではありません。
自我より他に何も持っていない。松本は、写真を実物の代表と見ますが、須永は写真を現実ではなく虚像として見ていて、それを現実だと認識したら興味を無くすようです。それはつまり、須永は世間から隔たった場所から世間を見ていて、そして世間と交流しようとする気は一切無かったから、写真を「虚構」のものとして客観的に見ることを望んでいたのでしょうね。
しかし、須永は一人でずっと悩んでいて、他人に助けを求めたけれどやはり自分を救ってくれなかったようです。どうしてこうなったのか、自分でも嫌なのに。
ラストの旅行で、何も考えずに世間を見ることの楽さを覚えます。この楽さのように母も自分に対して楽にして、自然に接してくれればいいのに思ったり、下女である作の単純で純粋なところに安息を得たり。理性で物事を考えるのとは全く違うような「楽」ですが、その楽が須永を救ったようです。
物語全体の感想
この「彼岸過迄」は、敬太郎がいろんな人の話を聞いたりしていくことが主な進行となっており、その様子は「我輩は猫である」の猫を彷彿させますね。しかし、違うのは、「猫」である敬太郎も物語に入ろうとして、結局入れなかったというところでしょうか。
敬太郎は探偵を行ったり色んな人の話を聞きましたが、敬太郎自身にはそのような物語がありませんでした。いろんな物語から広く浅く知識を得ただけで、彼自身に深みを与えることはありませんでした。結局、敬太郎は物語の外の人間だったというわけでしょうか?全てを知っている田口に探偵を依頼されるなど、物語としてはただのエキストラ?
しかし、物語に入れないのは不満であるけど逆にそれが幸せでもあると思います。平凡ながらも、須永のように永遠に苦しむことが無いのだから。この先、敬太郎の未来にも物語が作られていくのでしょうか。
「彼岸過迄」には、両義性というものが重要な要素となっていたと私は思います。敬太郎の占いとか、習慣に縛られない冒険がしたいけれども習慣に縛られて生活したいと敬太郎が願うこと。そして、須永の、千代子を愛しているのかいないのか、嫉妬の炎を燃やすのか燃やさないのか、母を喜ばせたいのか喜ばせたくないのかわからないところだとか。
私が思うに、敬太郎も須永も、「これさえあれば生きていける!」と思えるようなものを持っていなかったのでしょう。迷信が蔓延る江戸時代から、近代的になり全てが科学で証明されるようになった明治時代になったことでいろんなことを知れた反面、いろんなことが最初から存在しなかったことも知ってしまったのではないでしょうか。
だから、「何をやっても同じだ」というような考えになってしまって、自分の気持ちも絶対的なものではないと考え、簡単に感情を発揮することもなくなってしまったということかと、私は思います。
イデオロギーの消失、それは現代人にも当てはまることです。自由を得て、いろんなことを知れるようになりましたが、それによって「最初から無い」ことを知ってしまった。「神は死んだ」とは、このことでしょうか…。まあでも、旅行に行くことで心が安らいだように、理性ではなく本能で物事を考えればまだ救いはあることが、この小説では示唆されているように思えます。やはり、人は絶対に個人を救うというわけではなく、人の生活も含めた「自然」の持つ本能的な得たいの知れないが心地よい「何か」が、さまよう人間に救いを与えることがあるのかもしれませんね。仏陀がスジャータからミルク粥をもらったように。
実際私も、理性と他人によって自分が救われなかったときがあって、自殺をしてみようかと考えたことがありましたが、死に場所を探すためにバイクでうろついていたときに見た美しい夕焼けによって、生きながらえましたからね。