城の崎にて・小僧の神様 感想

城の崎にて・小僧の神様  作 志賀直哉
 この角川文庫版「城の崎にて・小僧の神様」は、表題の短編以外の志賀直哉の短編も載った、短編集です。
 載っているものは、「母の死と新しい母」、「清兵衛と瓢箪」、「正義派」、「小僧の神様」、「城の崎にて」、「好人物の夫婦」、「雨蛙」、「焚火」、「真鶴」、「山科の記憶」、「痴情」、「瑣事」、「濠端の住まい」、「転生」、「プラトニック・ラヴ」の15編です。
 5ページから159ページに15編が載っていますから、1作品平均10ページ少し。なので、どの作品も短編という名に相応しい短さです。しかし、どの作品も短いながらに物語として表したいことを的確に表現出来ているものだと私は思いました。
 志賀直哉さんの書いた小説では有名なものとして、長編小説「暗夜行路」があるのですが、その前にこの短編集を手に入れたので読んで見ることにしました。

城の崎にて・小僧の神様 (角川文庫) 城の崎にて・小僧の神様 (角川文庫)
(1954/03)
志賀 直哉

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 さすがに全短編の感想を書く気にはなれないので、印象深い作品のみ。
城の崎にて
 おそらくノンフィクションの作品。作者が事故にあって、その怪我を癒すために城崎の温泉で療養し、そこで動物の生死と自分の生死について考える。
 この作品は、読んでいて梶井基次郎の「檸檬」の中にある「冬の蝿」を思い出しましたよ。両方とも、身近な生物の生死を見て、自分の生死を考えるというようなものですからね。

自殺を知らない動物はいよいよ死に切るまではあの努力を続けなければならない。

 というのがかなり印象に残りましたが、しかし作者は、「いざ自分もそのときになると、苦しんでいても生きようとする努力をするのだろう」というようなことを書いています。客観で得られる感情と主観で得られる感情というのは、やはり違うものなのでしょうか。
 「自分が今生きているのも、それは事故のときに偶然生きられたのであって、死んでいた可能性も十分あった」というようなことも書いています。作者が偶然に殺してしまったイモリのように、生と死の境は曖昧で、かけ離れているようで実はかなり近しい現象なのでしょうかね。
 
雨蛙
 。田舎娘と結婚した主人公が文学にはまり、妻を文学の講談会みたいなものに行かせ、そこで過ちが起こる話。
 一言で言うと、「NTR(寝取られ)モノ」。純朴な女性が豪胆そうな男に襲われ、そしてその話を聞いて主人公が肉情を刺激されるなんて、まさにNTRじゃないか!
 …、まあ、この作品について言いたいのはこのくらい。
濠端の住まい
 これも動物の生死の話で、隣の鶏を襲った猫が殺される話。
 美しくのどかで住みやすい場所で、鶏が殺されその報いで猫が殺されるという対比が、世界の残酷さとか真実を表しているような感じがあって感慨深いです。美しさと残酷さ、だけどそれは両方とも本物で、だからこそ儚く、魅力を創出する要因となっているのではないでしょうか。
プラトニック・ラヴ
 好きだった芸者の女を思い出す話。

忘れていれば一年でも二年でも忘れている。憶い出せば恋人だ。

 という文が、この話の魅力を代表しているものだと思います。
 熱烈な感情を持っていないように見えて、「本当に好きなのか?」と疑問に思ってしまいますが、いつまでも思い続けられる以上、本物の感情なのでしょうね。吹けば飛ぶように見えて、実は動かざること山の如しな大雑把に強くかつ繊細な、なのでしょう。
 上記4作品以外の作品も、上手くまとまっていて良い出来ですので、オススメですよ。

小説

Posted by YU