くるぐる使い 感想

くるぐる使い  作 大槻ケンヂ
 バンド「筋肉少女帯」のボーカル・作詞担当の大槻ケンヂさんが書いた小説です。
 大槻ケンヂさんの小説では「グミ・チョコレート・パイン」も読みました。ただ、グミチョコは半自伝的な小説であり作者の経験が多大に含まれているのですが、この「くるぐる使い」はれっきとした(?)フィクションとなっており、世界観が大きく異なっています。
 大槻ケンヂさんは幼い頃から小説や映画やサブカルチャーなどに精通しており、普通なものではなく「奇妙なもの」に心が惹かれる人間のようです。例えば、UFOとか精神医学とか、青少年の微妙な心の揺らぎによる病んだ精神だとか。
 この「くるぐる使い」は5つの短編小説が載ったもので、どれも病んでいます。

くるぐる使い (角川文庫) くるぐる使い (角川文庫)
(1998/01)
大槻 ケンヂ

商品詳細を見る


キラキラと輝くもの
 両親と死別した、兄と妹の話。妹が電波女になってしまいます。妹は「UFOにさらわれて、器具を埋め込まれた。これがその跡」だと言って、傷跡を見せます。その正体は…
 ラストに、妹が病んだ過程を精神学と結びつけて解説してくれます。妹の家族は兄だけでありそして、兄に性的な感情を持ってしまって関係を結んでしまった罪悪感が、全ての原因のようでした。傷跡は、自分でつけたもの。自分でナイフで心臓を突き刺そうとした結果でした。過去の自分の否定からの、記憶と設定の改竄。
 「電波女の作られ方」というものを描きたいがために書かれたような小説だと、私は思いましたよ。無駄な要素をほとんど省いて、結果を描くためという感じですね。
 「罪悪感が原因」だと書きましたが、さらに掘り下げて原因を考えるとやはり、両親と死別した寂しさというものが根本的なものだったのではないかと私は思いますね。人間の根本的な感情の一つである、「寂しさ」。それが、人間を変えてしまうのだろうと。
 
くるぐる使い
 知的障害者の娘を操り、旅芸人として生計を立てていくのが、「くるぐる使い」です。知的障害者の中にはなぜか本物の力、つまり人の未来だとか過去だとかを知れる能力を持った者がいるようです。
 主人公のくるぐる使いの男は、くるぐる使いとして生活するために、若干変で能力を持つ娘を、催眠や暗示などを駆使して「くるぐる」にしてしまいます。その後、娘とサーカスに入って能力を発揮しますが、娘の能力は無くなってきます。その原因は…
 娘を「くるぐる」にするシーンでは、やはり「寂しさ」というものを上手く利用しているようでした。能力を持っているから人に疎んじられて、孤独に過ごしてきた娘をさらに孤独にさせることで、自暴自棄にさせて、狂わせたのでしょうねえ…。
 ラスト、くるぐるの娘は、「私はくるぐる使いの男と惚れあっている」と思っていることがわかります。娘は孤独であるからこそ、身近にいる男を愛するようになるのはわかります。が、問題は男です。本当に男は娘を愛していたのか?
 …おそらく、男は娘を愛していたのでしょう。ただの道具だとして娘を扱いながらも、情が移ったのか。いやもしかしたら、彼も孤独だったから、娘が男を愛するように、男も娘を愛したのだろうか…。
憑かれたな
 発狂した娘を救うために、母親がエクソシストを呼ぶ話。医者でも他の霊能力者でも救えなかった娘を、何でもエクソシストが解決します。
 やはりこの話でも、精神学のことが前面に押し出されていますね。「何かに取り憑かれた!」というのは、自分の本能を抑圧しそれに耐え切れずに自己を否定してしまうことで、そういう暗示によるものだそうです。
 エクソシストは、「取り憑かれた暗示」を「正常に戻った暗示」に上書きすることがその能力となっています。が、取り憑かれたものは、文化が異なれば異なります。西洋では悪魔、日本では幽霊など。だから、専門のエクソシストではなく、色んな文化のエクソシストを知っているものこそが、完璧なエクソシストのようですね。
 上記のことを言いたいがための作品だと、最初私は思いました。が、ラストはゾクっときましたよ…。
 最終的に娘は、母が「娘の悪霊を自分の中に取り込んだ!」というイメージを持たせることで解決できました。もちろん、母はそのとき悪霊の存在なんて心からは信じていませんでした。そういう演技をしただけです。しかし、その後、母が今回の奇妙な事件を振り返って、説明のつかない部分があることに気づいたところで、「自分の中に悪霊が移動したという暗示」が発動。発狂し、物語は終わります。
 「暗示は暗示で上書きすることで解決する」というのがテーマでしたが、暗示の上書きによりさらなる問題が出てくる…というのには中々上手いと思いましたよ。そして同時に、恐ろしくなり、人間の心の不安定さを実感しましたよ…。
春陽綺談
 現実に倦怠し、夢の中を賛美していた少年春陽が、「リアル」な夢に取り込まれようとする話。 現実への嫌悪感と肥大化した自意識を持つ少年は、現実と夢のどちらを選ぶか?
 夢なのに、なぜだか「夢らしいな」と夢の世界では思いましたよ。夢の世界なんてほとんど覚えていないものなのに、なぜだかリアルさを感じさせるほどの、描写が面白かったです。例えば、夢の中の自分はまず「ここはどこか?」というようなことに疑問を持たなければならないのに、なぜか目の前の人との会話に集中してしまったりすることとか。
 この話で最も注目すべきは、やはりラストの春陽が「現実」を選ぶシーンでしょうね。最初、春陽は自分の夢の世界を邪魔する現実の人間のために鉛筆を削っていました。しかし、ラストでは夢の住人を退治し現実を選択するために、現実の人間を刺してしまうのです。
 夢を守るための道具が現実を選択する道具になるが、彼の選択した現実は本当の現実ではなく、「夢の世界」だったということか?現実を選択したと思ったら、もう自分は夢の住人?この、現実と夢の境界を曖昧にさせる心情変化は、面白いものです。
のの子の復讐ジグジグ
 いじめられていた少女が臨死体験をすることで、死を恐れていた人々に死後の世界を語って幸福にさせます。しかし、最後の最後、復讐のために彼女は冥土の土産を置いていきます。
 彼女が最初に見た死後の世界は楽園のようであり、そして人々に最後に語った死後の世界は地獄でした。その地獄は楽園の後にある、とのの子は言っていて、実はそんな地獄なんてないよ!と自分だけそう思いながら、死にました。
 死後の世界が実際どういうものなのかを知る術はありませんが、もし、本当に楽園の後に地獄があったのなら、のの子はどう思うのでしょうか…。わからないからこそどうとでも言えますが、逆に言えば、全ての可能性があるとも…。

小説

Posted by YU