それから 感想

雑記
 クリスマスイヴの深夜は、すだちと焼酎ですだち焼酎を作って、お菓子を食べながら明石屋サンタとミルキィホームズ最終回を見ていたよ!
 明石屋サンタは初めて見たけど、結構面白かった。結婚相手の父親が離婚して出て行った実の父親だったなんてどんだけー。「気づいたら忘年会が終わっていた」という話は吹いちまったぜww
 後、素人の女はうざいのが多かった。素人の男は簡潔かつオチのある話が出来ていたようだけど、女は話つまらないし話し方も礼儀がないしで駄目駄目だ。女がこんなんだから、婚活では男じゃなくて女が余るんじゃなかろうか。閉経の話は、まあ、いいけど…。


それから  作 夏目漱石
 「三四郎」に続く夏目漱石の3部作の一つである、「それから」について感想を書きます。
 以前三四郎の感想を書いたところ、その記事がグーグル検索でトップ近くに表示されました。いろんな考証無しで読書感想文書くだけの人って意外に少ないのかな?それからの感想も少ししかグーグルで表示されなかったし。
 一応「門」まで読みましたが、三部作全体で見ると一番物語が動くのは「それから」だと思います。三四郎がプロローグで、それからが本編、門がエピローグのようだと思いました。
 と言っても、昨今の小説のように物語が急転直下していくようなものではなくて、静的な情景も十二分に描きながら物語はゆっくりかつ確実に進んでいくことになります。
 あらすじですが、主人公は高等遊民(ニート)の代助で、彼は30歳ですが職業に就いていないにもかかわらず毎月家族からお金をもらって悠々自適に暮らしています。結婚もしていないので、親からしょっちゅう結婚するよう勧められるのですが、何かと文句を言って聞き入れません。
 そんな代助が、学生時代に好きだったが親友の平岡の元へ周旋してしまった三千代に再会します。代助は平岡の生活の窮状を知って三千代を哀れに想います。物語はそこから動き出します。
 
 物語は代助と三千代の再会よりも前から描かれていますが、それによって代助の心情の変遷も描かれることになっています。三四郎でも主人公に「三つの世界」があったように、それからにも主人公に「三つの時代」という感じのものがあります。
 それからでは、学生時代の時の代助、三千代に再会していないときの高等遊民を満喫している代助、三千代に再会して社会と自然のどちらに従うか煩悶する代助の3つの代助が描かれています。三四郎で3つの世界で感想をまとめたように、ここでも三つの代助で感想をまとめていき、代助の心の変遷について少し書いていきたいと思います。
 学生時代の代助
 代助は学生時代に、親友の妹である三千代に出会います。親友は代助を大変気に入り、代助も親友を気に入り、三千代にも興味を持ちます。その気持ちを知ってか知らないか、親友は三千代を代助に将来渡すような素振りをみせます。が、親友は病気で死んでしまいます。
 親友の元へは平岡も連れて訪れていたのですが、平岡は三千代をもらいたいと願い、代助はその願いを聞き入れて三千代に平岡を周旋します。
 
 周旋したときから代助は三千代が好きだったのですが、友のために自分の自然を無視してしまいます。彼はその決定を、平岡から三千代を奪おうとしたときに「今となっては後悔している」と漏らします。
 高等遊民のときの代助
 大学を卒業してからは、ある一戸建ての家で書生の門野と世話係の婆さんと一緒に暮らします。平岡に出会って、その怠慢ぶりを批判されますが、「パンを離れ水を離れた贅沢な経験をしなくっちゃ人間の甲斐は無い。」と言ってその批判を無視します。
 当時の彼を一言で表す、[nil admirari(ニル アドミラリ)」という言葉で彼を説明しています。この言葉は「何に対しても驚嘆したり感動したりできない冷淡な気持ちのこと」という意味であり、贅沢な経験をしていながらもどこか満たされないような代助の心情を表していると思います。
 後、このときの代助は今の日本の社会の惨状を非難もしています。「日本は欧米に混じって一等国のふりをしようとしているからみんな目が回るほど働いて、精神の困憊、身体の衰弱、道徳の敗退が起こっている。」
 三千代に再開した後の代助 
 代助は三千代の現状と彼女の気持ちを知るにつれて、平岡の元へ彼女を周旋したことを後悔し始めます。いつも親の言うことなどに冷めていた代助ですが、三千代を救うときは燃えるような情熱を持って活動します。
 三千代に会い、自分の気持ちを全て話した後の代助は前半の代助とは雰囲気が結構違っているように思えます。前向きになって後悔しない、というわけではないし神経的に衰弱もしているように見えるのですが、どことなく違っているような…上手く表現できません。
 三千代をもらう、と平岡に言った代助は、家族から勘当され、社会に出て自分で金を稼ぐことになります。社会に逆らい人の自然に従ったのにも関わらず、社会に出て行かなければならない代助の状況は、どことなく何かの因果を感じます。
 代助にはある哲学を持っています。彼は、自己本来の活動を自己本来の目的としていたのです。つまり、歩きたいから歩く、すると歩くのが目的になる。考えたいから考える、すると考えるのが目的となる。自己の無意識の欲求こそが人の生きる目的である、と考えていたのです。
 代助は上記の信念を持って、自分の心の自然に従い、社会的に罪であることを自覚しながらも三千代を平岡から奪うことを決めたのです。もしこの自然に従わなければ代助の生きる意味は存在しなくなるのでしょう。ただ怠慢に生き、半端なところで妥協してその生涯を終える。代助は目が回るような忙しさで働き続けてそんなことを一切考える余裕の無い明治人を、おかしいと感じていたのでしょう。
 この小説は姦通小説ですが、初めて姦通する側に共感できた小説でした。確かに客観的に見れば代助は罪人であり悪人でありますが、心にゆとりを無くして自分の生きる意味すら考えない人々と比べると、どちらが正しいかわからなくなります。
 「それから」という、それからどうなるのかと言いたくなるようなタイトルですが、物語が終わった後に代助は「それから」どうやって生きていくかというような意味を持つのでしょう。「それから」は「門」に続き、他人の妻を奪った主人公と妻の細々とした生活が描かれていきます。自然に従い、社会に逆らった人間の人生はどのようになり、そこで生きる人間は何を考えるのか。それは「門」で描かれることになります。
 この後は少し、雑文。
 「それから」は代助の心情を逐一描写した主観小説であり、「代助」と彼から見た「三千代」と「社会」の三種類しか出てきていないかのように進んでいきます。平岡も父も兄も嫂も、全て「社会」を代表するだけで明確な「登場人物」とは見えません。このような舞台を作ったからこそ作者は、代助という一個体の人間の全てを描写出来たのではないでしょうか。キャラクターを重視した漫画やライトノベルのように、主要人物を作ってから彼らをある世界や設定に放り込んで物語を作るみたいな。
 明治時代の小説をいくらか読みましたが、明治の社会そのものにここまで客観的で批判的に描いた小説は初めて読んだかもしれません。明治時代に何が起こったかは歴史の教科書で勉強できますが、当時の人々が今の時代をどのように思っていたのかはなかなか知ることが出来ません。
 「それから」によるとこの時代でも、物の裕福さに反比例して人々の心がすさんでいっている、というような考えがすでにあったらしいですね。少なくとも、代助はそう思っています。平成の今でもよく社会に言えるようなことが、明治時代から言われていたなんて驚きですし、面白いです。ということは明治の人々の気持ちにも、現代人は十分共感できるのではないかと思います。現代的な病気や現代的な人々の性格というのは明治時代からその兆候があり、しかし人々はその反省を一切行わず生きていっているのかもしれません。 
 

それから (角川文庫) それから (角川文庫)
(1985/10)
夏目 漱石

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Posted by YU