蜘蛛の糸・地獄変

蜘蛛の糸・地獄変  作 芥川龍之介
 芥川龍之介の代表作の一つに選ばれるであろう、蜘蛛の糸・地獄変が載った文庫についての感想を書いていきますよ。
 この文庫には、袈裟と盛遠、蜘蛛の糸、地獄変、奉教人の死、枯野抄、邪宗門、毛利先生、犬と笛の8編が載っています。とりあえず感想も8つに分けてみます。

改編 蜘蛛の糸・地獄変 (角川文庫) 改編 蜘蛛の糸・地獄変 (角川文庫)
(1989/04)
芥川 龍之介

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袈裟と盛遠
 文庫の最後に載っている解説を読むと、「これは文覚が出家した原因のことを書いており、そしてその結末を読者はすでに知っている」と書いてありました。ごめん、私にはこのことは知らなかったよ…。
 単にすでに妻になっている女性を奪って夫を殺す、というのではなく、かなり複雑怪奇な心情がそこに存在していた、ということを芥川龍之介のこの物語では描いています。そこには確かに「愛」も働いていたのでしょうが、しかしその「愛」というものは「憎しみを伴った愛」というような暗いものです。
 袈裟も盛遠も、互いを憎み、恐れ、そして愛している。そんな、全く不自然な心の動きというものをこの物語で書かれています。
蜘蛛の糸
 子供向けの短編で、教訓めいたような話であり、日本人ならほとんどの人が知っているので説明は不要でしょう。
 しかしこの短編を改めて読み直してみると、少し印象が違ってきました。最初は、「悪人でも善いことをしたことがある。でもやっぱり人を憎んだり妬んだりすると救われない」というような感想を抱いていました。しかし、物語の最初と最後、「極楽は何事も無く、ゆったりと時間が過ぎていて、おしゃかさまはカンダタの様子を見て少し悲しそうにしていただけ」というシーン、何かこう、結局人が救われようが地獄に落ちようが世界に対しては何の影響ももたらさない、という感じがあって何となく寂しく思いましたよ。
地獄変
 画師の良秀が地獄の絵を描けと言われたので描こうとしたところ、「私は見たものしか描けない、娘が乗った車が焼けるものを実際に見てみたい」と殿様に言ったところ、良秀の娘が車の中に入れられて焼き殺された話。
 えげつない因果と狂気の話だと最初は思いましたが、やはりこれも「袈裟と盛遠」と同様、人間の複雑怪奇な心情が働いているようでした。この話で最も着目すべきシーンは、娘が焼き殺されていて呆然となっていた良秀が、恍惚とした法悦の輝きをその満面に浮かべていた、というところでしょうか。
 一体そのうれしそうな輝きはどこから出てきたのでしょうか?確かに娘が焼き殺されたことで怒りと憎しみのような表情を浮かべていたのですが、その感情は若干変質したようです。私の考えでは、怒りや憎しみが無くなったというのではなくて、それらの感情を強烈に抱いている自分と娘の地獄をこの「現世」で感じて、「今、こここそが、地獄だ!」という現世への皮肉と絶望によって、真理に至った法悦と現世への哀れみによって笑みが出てきたのではないでしょうか。
奉教人の死
 長崎のキリスト教徒の人たちが題材。罪を着せられ、それでもなお誠実に生きたある人は、実は男装をしていた女性だったという話。
 単なる「いい話」のようですが、この物語はその人間である「ろおれんぞ」についての過去や女であること以外の正体については一切書かれておらず、これは「人間」を書いたのではなくて「物語」を書いた、というところに注目すべきかと思われます。

「ろおれんぞ」が最期を知るものは、「ろおれんぞ」の一生を知るものではござるまいか。

と、話の最後に書いています。つまり、人の一瞬一瞬が人生であり、人生全体こそが人生だとは言えないのではないか、というような作者の主張が含まれているのかもしれませんね。
枯野抄
 芭蕉の臨終を看取るその弟子たちの心情を書いた話です。芭蕉の死に対する心情は、ただ「悲しみ」の一言では終わらなくて…。
 弟子たちそれぞれがいろんな想いを持っているのですが、全体的に芭蕉への感情ではなくて「自分への感情」が中心になっているように思われます。「師匠の死とそれを悲しむ弟子」という状況に自分を置いた感情の反射と、それに気づいて皮肉めいた笑みを浮かべるものなど。
 色々な想いが交錯しますが、文庫の最後に載っていた作品解説では、「この小説の主人公は弟子たちではなくて芭蕉自身であり、地獄変の良秀と同様に芸術家としての孤独を受けたのだ」というようなことが書かれていました。一見、真面目な弟子たちに囲まれて死ぬという愛を受けた死に方だと思いきや、実際はたった一人で、本当の意味で自分の死を悲しまれずに死んでしまうという、寂しい死に方をしたというのが、この物語の隠された主人公なのでしょう。
 
邪宗門
 未完の作品。キリシタンうぜえ!と本気で思いましたが、こいつが懲らしめられることなく未完で終わってしまったのが残念です。虎の威を借る狐の糞野郎め!力づくで信者増やしてんじゃねええ!
毛利先生
 この話だけは他の作品と異なっており、複雑怪奇な人間の感情などは出てこない、日常的な話になっています。毛利先生は「私」が中学生のときに臨時で英語を担当した先生で、少々変わった人のようでした。大学卒業後、「私」は毛利先生ともう一度見ることになったところ、毛利先生は本当に英語を教えることが好きなんだということがわかったのです。
 生徒になめられ、軽蔑され、他の先生たちにも変に思われていてもなお、毛利先生は必死に授業をして英語を教えようとしていました。「私」は先生のその必死ぶりを最初は、「金を稼ぐため」だと思って軽蔑していましたが、実際は毛利先生は英語を教えることが好きで好きでたまらないから、その場所から捨てられないようにするがために必死になっていたのです。
 毛利先生は確かにいろんな能力が低いのですが、しかし誠実なのです。世間はそんな彼を口悪く解釈し、蔑み、捨てるのです。これは毛利先生のような人間への世間一般の作用でしょうか?毛利先生は、蔑まれて、捨てられて、当然だったのでしょうか?
犬と笛
 蜘蛛の糸のような寓話。しかしこの話は本当に寓話で終わっており、言及することは無いかな…。

小説

Posted by YU