小説版ダ・ヴィンチ・コード 下巻 感想&総括

雑記
 うーん…最近生活がローテーション過ぎ、他人と話しが無さ過ぎで、自分の無変化な人生に疑問を呈するようになってしまっている…。
 刹那的であると自分で思っている行動も、それは自分の為した経験、変化のある生活などの実感をもたらしてくれる?例えば、単行本の漫画と週刊の漫画。DVDと放映中の番組?将来他人よりも多くのことを知ったって、それで自分の魂が救われるかといったらそうにはならない。結局同じか。

ダ・ヴィンチ・コード(下) (角川文庫) ダ・ヴィンチ・コード(下) (角川文庫)
(2006/03/10)
ダン・ブラウン

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下巻
 上・中巻と続いてきて、下巻で最終巻となります。主人公たちは真犯人の正体を暴き、打ち勝つことが出来るのか!?そして、真実を得ることが出来るのか?
 
 西洋のほうでは「アドバシュ」という暗号が古来から存在しており、いろんなものにその暗号が用いられているようです。例えば、聖書に出てくる「シェシャク」とは、アドバシュを用いると「バベル」となったり。しかし…、どうして聖書に出てくるシャシャクではなくバベルのほうが先によく知られるようになったのでしょうか?優先順位を考えれば、やっぱり聖書が第一になると私は思うんですけどねえ~。
 下巻の4分の一くらいから、事態は急変していきます。まあ、それまでにも刑事の捜査などに伏線はあったのですが、味方だと思っていた人物が裏切ったり謎の人物である「導師」も積極的に登場するようになります。こういう、「実は身近な人物が怪しい」というのはミステリの王道ですね。ポッと出の人間が犯人だったりするのよりはよっぽど良いです。
 真犯人の犯行動機は、「シオン修道会が真実を世に知らしめる時期が来てもそれをしなかったから」ということのようです。そしてさらなる本当の動機は、聖杯を見つけて金や栄誉を手に入れようというのではなく、ただ単純に「知りたい、真実を世に知らしめたい」という欲求のようでした。今まで聖杯を研究してきたということを考えればそういう考えに至るのは普通ですが、まあやっぱり犯罪は犯罪だな。
 その真犯人の力によって教会とオプスデイは利用されただけのようでした。物語前半では、教会とオプスデイの司教のやりとりで彼らがかなり怪しい!と思えるようなシーンがありましたが、それらは全てミスリードだったってわけですね。
 シオン修道会の参事を殺したシラスは、最後に自分で傷つけてしまった司教を病院に運び、自分は公園で息を引き取ります。王道な展開ですが、それでもやっぱりこのシラスが逝くシーンは感動してしまいましたよ。彼は悪役のようでしたがただその信仰心を利用されて騙されただけであり、最後はその罪の償いと司教の無事のために祈ります…。昔から「化け物だ」と蔑まされてきたシラスは司教によって安寧を得たかと思ったのに、騙されて罪を負ってしまったのはなかなか悲しい結果ですよ…。
 主人公達と真犯人の決着がつき、最後の暗号を手に聖杯探求を続けます。決着の後の雰囲気は今までは打って変わって、かなり穏やかな感じとなっています。今までずっと、犯人として(本当は囮として)追われていたので焦りが感じられましたが、ここからはゆっくりとかつ脅威を感じることも無くなっています。
 ソフィーの祖父が残した様々な謎を解決していき、ソフィーは拠り所を見つけます。しかし聖杯はまだ見つかりません。ラングドンがパリに戻ったとき急に思案が浮かび、一番最初の場所であるルーヴル美術館へ走ります。そこで見たのは、聖杯のありかを示す最後の暗号に見事に合致した、逆さピラミッド…。 
総括
 この小説は、聖杯の謎についての作者の研究発表を兼ねたミステリ物語、といったところでしょうか。ミステリが第一のものではないので展開は結構王道ですが、丁寧にお約束を守ってるのでミステリとしての魅力はなかなか高いかと思います。上・中・下の3巻に及ぶ長編物語ですが、作中では時間はたった二日しか経っておらず、そのおかげで読者に息もつかせぬスピーディー感というのも出ていたのではないでしょうか。
 登場人物に関しては、主人公のラングドンとかソフィーなどの大多数の登場人物はストーリーの役割を演じただけのようでありキャラクター性は薄かったと私は思いますね。ただ、リー・ティービングだけはキャラが濃かった。イギリス人がよくやりそうな自虐ネタとか、変な言い回しだとか、ストーリー上の役割だけでは終わらないキャラ性を彼は持っていましたよ。まあ、少し下劣な箇所もあって、尊敬できるような人柄じゃありませんが…www
 この小説にはものすごい数のうんちくが登場したり、そのうんちくを使うことで暗号や謎が解かれていきますが、この暗号や謎って作者が考えたのでしょうか?だとしたら、結構すごいことかと私は思いますよ…。一体作者はどれだけ研究したのやら。
 あとがきを見ると作者の両親、妻はみんな研究者だったり教師だったりと、何かすごい人に囲まれているようです。そんな環境じゃあ、作者が研究者になったりするのも理解できるなあ~。
 色々この本に関しての反論本は出ていますが、それでも古代キリスト教に関しての知識だとか考え方だとか興味だとかが増えるきっかけになる良い本だと思います。この本を読むことで信心がなくなる!と懸念している人たちがいるようですが、まあ、この本に載っているものも解釈の一つだということで。
 ちなみに私は以前に旧約聖書の解説本を読んだことがあるのですが、神様はものすごくひどいことばかりやっていて、それでも解説者はそれに疑問を呈しておらず肯定していました。信者の信心ってどんなものなんだろう?神の行いに疑問を持たないのなら、この小説でも信心は揺るぎ無さそうにも思える(盲目的だから)のですが、どうなんでしょうね。
 ネット上でも色々な感想を読みました。「この小説は嘘ばっかりだ!本気で信じている人は可哀想(笑)」といような記述をよく見かけるが、その人の記述にも特にソースがなかったり、「思う」を多用していたり。
 実際にある何かを作った人に聞くことなんて出来ないんだから、その作品への解釈なんていろんなものがあって当然だろうと思いますよ。この小説もその一つであって、この本に載っているものは全て正解とも間違いとも言えない訳で。真実は、神のみぞ知るということなんじゃないの?
 批判本を書いた人は、「この小説における芸術作品、建築物、文書、秘密儀式に関する記述はすべて事実に基づいている」の一文があったから書いたようです。まあ、私からすれば、事実に「基づいている」のであって、「小説に登場する解釈は全て真実である」と解釈しないほうがいいかと思います。具体的に言えばつまり、「最後の晩餐」は確かに存在するが、イエスの横に女性がいるというのは作者の解釈であって事実とは言い切れない。「事実に基づく」というのはそういうことで、ここでいう「事実」とは「最後の晩餐の存在のみ」
 まあ何にしろ、この小説はキリスト教についてよく知らないような人、こういう解釈もあるのかと寛大な見方が出来る人にはかなり出来の良い小説だと思いますよ。エンタメとしてもうんちくものとしても。
上巻 感想
中巻 感想
 

小説

Posted by YU