小説「伊達政宗」 総括
雑記
微風邪がなかなか治らんな…
伊達政宗 (1997/03) 山岡 荘八 |
総括
さてまずは、山岡版での伊達政宗の生涯から言及します。
政宗は、生まれる前から母方の最上家の陰謀に巻き込まれていた人物でした。父親は優しくて大切に子供を育てる良い人間でしたが、母親からはいつ陰謀を果たされるかがわからず、両親からは愛と憎しみの感情を受けて育ってきました。肉親が敵となるのはこの時代ではよくあったことですが、母親から憎まれていたのは珍しいと思いますよ。しかも、その憎しみの原因は政宗個人には全く無いのです。
そんな伊達政宗は、英才教育を受けて、多くの人から多くのことを学び、常人よりもはるかに早く成長していきます。20代ほどで奥羽統一とか、普通なら4,50代でようやく成し遂げられうるようなことをガンガンやっていきます。
秀吉と出会ってその実力が認められたり、家康とも出会って影響を受けたり。政宗は段々中央の戦にも顔を出してきます。が、奥羽統一のような積極的な周辺諸国の支配は敵が増えるのであまり行わず、隙あらばこっそりとちょっかいをかけたり、勢力を維持したりしようとしてきます。
秀吉が死に、家康が関が原の戦いで勝利して日本の勢力図を大きく書き換えてもなお、政宗は比較的安定して自国を治めます。そんなときに知ったのが、世界の中でもトップクラスの海軍を持つスペイン。このスペインの艦隊を利用して、あわよくば家康を倒そうとします。スペイン艦隊の利用のためにキリスト教に改宗したように見せますが、本当に改宗してしまった他の人々は後に厄介な存在になってくるのです…。
結局、スペイン艦隊はすでにイギリス艦隊に倒され、共闘しようとしていた大坂方も、大坂夏の陣で滅亡…。自分による天下統一は諦めることになりますが、しかしここから伊達政宗は泰平の時代を作ろうと尽力することになります。日本全国を統一し、さらに朝廷の力とこれからの将軍家の道筋を示した徳川家康が、外様大名の中では最もと言っても良いほど認めていた伊達政宗は、徳川家に仕えるというよりも天下に仕えるという形で、民のことを考えた善政を敷き、仙台藩を安泰に導きます。
伊達政宗の人生観には、このようなものがあります。あ、もちろん山岡版の小説での、解釈ということで。
――人間は、この世へ客に出された旅人である。客の身なれば、あまり不平も申すまじ。
山岡版の小説では、結局人間の身体というものは自然からの借り物であり、自分のものはこの精神のみであるとしています。だからこそ、借り物の肉体を精神とは別として大事に扱い、肉体の限界を知った行動を取るべきだとしています。そして生も死も、それは自分の誕生と消滅というよりも、肉体を借りることでこの世に具現化しただけであるからこそ、具現化させてくれたこの世界に対してあまり恨みつらみを募らせず、出来るだけこの世に招いてくれたことに対する恩返しをするべきだとも言っています。
何とも達人らしい考えですね。無闇に命を落としたり乱を起こそうとする若者が多かったこの時代だからこそ、考えられたことなのでしょうかね。
辞世の句は、
曇りなき 心の月を さきたてて
うき世の闇を 晴れてこそゆく
上記に「旅人」がありますが、この辞世の句も旅人が行う行為である「行く」ということが言われています。行く、進む、歩くなど、このような意味の言葉は何とも前向きで、爽快です。曇りなき心で浮世の闇を照らしていくというのも、全く後ろ向きな言葉ではなく、「自分」と「心」と「社会」とを上手くエネルギッシュに言い表しています。
政宗の人生は、かなり活力があり、「伊達~」という言葉が巷にあふれるほど、華美なものでした。活力としては秀吉のものと性質は似ているのですが、秀吉とは違って子孫を残せましたし、ブレーキもかけることが出来たため、悲壮な最期にはなりませんでしたね。
活力があり、前向きで、大きな野望を持ち、どんな困難にも負けずに立ち向かっていった爽快な人生を送った、非常に満足した様子が見られる辞世の句だったと思います。