小説「最後の将軍」 感想

2020年4月23日

最後の将軍  作 司馬遼太郎
 幕末は近代日本史上の中で、最も激動の時代だったと言っても良いでしょう。そんな激動の時代にはやはり、「英雄」というものが出てきて、英雄同士が争ったり力を合わせたりしながら各々の正義を全うしているようでした。まるで、日本中の人間が死力を尽くして戦った戦国時代のようですね。
 幕末を舞台にした小説やドラマは数多くありますが、実は私はそれらを真面目に見たことが一度も無く、幕末についての知識なんて中学校の歴史レベルでした。なので「日米修好通商条約」などのような断片的なキーワードしか知らなく、日本全体がどのような「動き」であったかを知らず、坂本竜馬は一体何をしたかすらわからない人間でした。私の徳川慶喜についての認識もそのような感じで、「徳川慶喜は江戸幕府最後の将軍であり、大政奉還をした人物」とまでしか知らなく、どのような思考の行程で自ら幕府を崩壊させる決定に至ったかなんていうことに対して全く疑問にも思わないほどでした。
 以前、司馬遼太郎の「義経」を読んで、司馬さんの歴史小説に興味を持ち、古本屋で短くて面白そうな「最後の将軍」を見つけたのでこの小説を読むことにしたのです。私がほとんど知らないのに、みんなが興味を持っている幕末の時代を知ることに対しての、知的好奇心というものも多大にありましたが。
 ではこれから感想です。


 徳川慶喜は、将軍になるような家系ではありませんでした。それなのに、周りのものが運動をして、本人の意思に関係なく物事が進んでいく様子は、まさに運命というものを感じずにいられませんでした。
 慶喜が、庶民的な行動から貴族的な行動まで分け隔てなく才能を持っていたこと、父親が大奥に嫌われていた結果幕府にも嫌われていたこと、世間の慶喜への期待と外国が日本を脅かそうとしていた情勢に生まれたこと、未来を見通す先見の明を持っていたことなど、慶喜はあの時代に生まれるべくして生まれた運命の人だったと私は思います。
 慶喜は世間から「外国勢力を追い払ってくれる英雄」だと思われていましたが、彼は頭が良いため「攘夷なんて出来るわけが無い」ということに早々と気づいていたようです。彼は現実的でない精神論よりも、現実を重視していたようです。しかし彼は、「実際に行動したらどうなるか」というようなことを考えられない愚かな民衆に担ぎ上げられてしまったので、なかなか上手く英断を成し遂げられなかったのでしょう。
 慶喜は世間から「攘夷」のほうに期待されていたのにも関わらず、「開国」のほうを目指していたので、敵が多く味方がいない状況もしょっちゅうだったようです。世論を重視するか、幕府を重視するか、日本を重視するか、彼はその3つの「役」を求められ、役者として本気で奮闘していたということをこの小説を読んで感じました。時に相反するような3つの役を演じる難しさは並大抵のものではなく、彼の智謀の果てしなさには感嘆してしまいます。「この場面では彼らはこのような考えになっていなくてはならぬ」ということのために、会議で20時間しゃべり続けて説得したりしましたからね。彼の政治家としての実力もまた、感心せざるを得ないものを持っていたようです。
 明治維新の功労者であり明治政府の骨格を作ったとまで言われた坂本竜馬ですが、この小説を読む限り、慶喜も竜馬くらいの革新的な考え方を持っていたことがわかります。「これは慶喜将軍も驚くだろう」と思って慶喜に対して述べた考えを、すでに慶喜が持っていたりしますからね。彼はその考えのさらに一歩踏み込んで、「それを成し遂げるには具体的にどのように行動し、どのような役を演じるべきか」とまで考えているほどでした。
 慶喜と竜馬の考えでは、徳川家を残しかつ全国にいる大名などによって政権を一元化することで無血革命をやろうとしていましたが、薩摩が倒幕によって革命を起こそうとしていたので慶喜の理想的な政権移譲が出来なかったようです。この小説を読むだけでは、薩摩は悪者のように思えますね…。将来の新政府の中で実権を握りたいがために、わざと争いを起こそうとしていたように見えますし。ただ、薩摩側の小説を読めば、この認識も変わったりするのでしょうか。歴史とは、描かれ方と見方で大きく印象が変わりますからね。
 慶喜は薩摩の挑発に乗らずに、ただただ朝廷への恭順の姿勢を見せることで彼らの思惑に乗らないようにしていたようです。「義経」のように、長い歴史の中で、悲劇のヒーローだと見られるように。
 幕末の慶喜の活動量はすさまじいほどでした。まさに、全ての人間が死力を尽くした激動の時代の、代表者でしょう。その活動の密度は、戦国時代を終わらせその後二百何十年もの平和を日本を築いた徳川家康と同じくらいだったと私は思います。実力自体は徳川家康ほどだった慶喜が、家康とは正反対の自ら幕府を崩す決定を下すことになるという対比は、歴史的ロマンを感じずにはいられません。
 江戸を去った慶喜は静岡で隠居暮らしみたいなことをしますが、幕末の激動の時代を過ごした彼なのに、暇になりそうもないほど趣味が豊富であり、それなりに満足しているような感じで日々を過ごしていたようです。これは、人生の動きを消費しすぎた結果こうなったという運命でもありますが、明治時代という幕末とは全く違う平和な時代になったから上記のように日々を過ごしたとも言えます。つまり、慶喜は幕末だったからこそ「最後の将軍」であっただけで、普通の平和な時代では「ただの人間の一人」になったと、私は歴史的見地から見てそう思います。さらに言えば、英雄とは激動の時代にこそ、英雄たりえたのでしょう。
 この小説は慶喜が生まれたときから死ぬときまでを書いていますが、そのほとんどは慶喜が政治的に活動をしているときに割かれています。
 慶喜の長い人生の中のたった10年ほどの期間だった彼の活動が終わると、この小説の中の時間が進むスピードは一気に早くなります。慶喜の趣味や暮らし方を描き、幕末を過去のものとして慶喜が話をしたり天皇陛下に謁見しに行くことなどが描かれます。
 幕末のときよりも進むスピードが一気に早くなったのに、彼の余生の部分では時間が止まりそうなほど穏やかな印象を受けました。ただ、淡々と時間が過ぎていき、まるで激動の幕末を懐かしく振り返るようでした。
 慶喜の余生を、どうしてここまで平和的に感じることが出来たのでしょうか。慶喜の生存中にも死後にも、日本は大きな戦争をしていて平和とは言い切れないのに。その理由を考えると、単に司馬さんがそのように書いただけとも言えるのですが、慶喜から見れば彼の激動の時代は幕末だけであって、彼はそのときの「役」を見事に演じ終わった、その後の休息であったからだと、私は考えます。

最後の将軍―徳川慶喜 (文春文庫) 最後の将軍―徳川慶喜 (文春文庫)
(1997/07)
司馬 遼太郎

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Posted by YU