疾走 下 感想

雑記
 今なら人だって殺せる勢いがある。いや、勢いというより悟り?何も感じなくなっているような感じか?やっぱりよくわからない。頭の中ではごちゃごちゃしていても、冷静に自分から自分を退けて行動を起こせるのか?


 少年シュウジはついに犯してしてしまいました。人を殺す、という罪を。
 それは仕方が無かったことかもしれません。殺した相手からは地獄のような責苦を受けていたのですから、そのような行動を起こしてしまったのは人として当然のことだったのかもしれません。しかし罪は罪であるので、シュウジは日の下で生活を送るという健全な人生から、取り残されてしまいました。
 シュウジは生きるために走り続けます。そこまで頑張っていけたのは自分の憧れの「ひとり」のエリがいたからでしょう。エリに会うためにシュウジはひとりで東京に行き、そこで仕事をします。やはりそこでも不条理な現実を突きつけられて・・・・
 
 エリに会い、彼女に欲情していた叔父を殺し、「ふたり」は共に故郷の干拓地へと帰ろうとします。そこでついにシュウジは警察に追い詰められ、警察の銃は運悪くシュウジに致命傷を与えて彼は帰らぬ人となりました。
 シュウジは暴走する軽トラックに乗って以来、走ることが好きになりました。たったひとりでも彼は干拓地を走り続けました。そのときの彼の「走り」は何かに追いついたりただ走ることを目的としたものでありましたが、いつしか彼は走ることを逃げるために使うようになりました。
 しかし一番最後の最後、彼は逃げるためではなく立ち向かうために走りました。無謀ともいえる、刃物を振り回しながらの警察官への特攻。それは走ることが好きだった少年の、最後の疾走。それが彼の最後の望みでもありました。
 過酷な人生を疾走し続け、そして倒れた少年シュウジ。しかし彼は「ひとり」ではなくなっていました。ごくわずかな人数ですが、シュウジを想い、シュウジを「ふたりのひとり」にした人たちがいます。この物語の語り手であった神父、エリ、アカネ、そしてアカネとシュウジの子供。シュウジは彼らの心の中で生き続けるでしょう。
 でもやっぱり、シュウジには救いがないと思えます。普通、聖書では神からの救いがあったりしますが、この本の中に出てくる聖書の場面は、「最初から無かったらよかったのに」などのような後ろ向きな場面が多いのです。それはいくら聖書だからとしても、絶対に救いが訪れるということは無いことを示唆しているのか。
 神も仏も無いのはこのことで、シュウジはごくわずかな人間に支えられながらも、その根本が元通りになることは一切無いまま物語は終わります。
「誰か、一緒に生きてください」
 人々にどんなにひどく扱われようとも、人間は「ひとり」では生きてゆけない生物なのかもしれません。シュウジがこのクソッタレな人生の中で悟ったのは、意外にもこのことだったのかもしれません。「人間を信用するな」でもなく、「生きていてもしょうがない」でもなく、悟ったのは「ひとりは嫌だ」。
 シュウジの人生が読者に問い掛ける。読者はどう感じるか、何を思い、これから先にそれをどう生かすか。物語の中なのに報われないこの少年の生き様を見て、何かを学び取ってあげてください。そうすれば、シュウジはもう「ひとり」ではなくなるので。
疾走 上 感想

疾走 下 (角川文庫) 疾走 下 (角川文庫)
(2005/05/25)
重松 清

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Posted by YU