小説 風と共に去りぬ 感想
風と共に去りぬ
作者 マーガレット・ミッチェル
1936年にアメリカで刊行された、アメリカの南北戦争を題材にした長編時代小説です。
今回読んだのは、新潮文庫の大久保康雄・竹内道之助訳のもので、全5巻となっています。
途切れ途切れで読んでいたので、読了には物凄く時間かかりました…
半年くらい読んでたんじゃないかな?
でも、内容自体はかなり面白いものでしたよ!
時間かかったのは私の集中力の無さが原因です!
感想については書きたいことが多すぎて、3日くらいかかりましたw
まず第一に、タイトルの「風と共に去りぬ」という言葉は本文中の、アトランタへの北軍の襲撃から主人公スカーレットの故郷であるタラへと逃れる時に初めて登場しています。
意味としては、南北戦争という大きな風によって、美しいアメリカ南部の文明が去っていったということを表しています。
まあつまるところ、この小説は文明にせよ登場人物の心にせよ、「変化」を描いているのだと私は思うのですね。
とりあえずまず、スカーレットやレットなどの登場人物の心情の感想ではなく、まず南部全体に関する感想から始めていくことにしましょう。
この小説では南部に多くあった農園の自然環境や、当時の南部で流行っていた服やインテリアなどについて、かなり細かく想像が出来るように描かれています。
南北戦争は比較的新しい戦争であるのでアメリカ国内に多くの資料があるものの、それらは勝者である北軍側から見たものや、戦争全体の進行についてのことが書かれたものが多いだけで、この小説のように「南部の中・上流家庭の白人側から見た南北戦争」というのは少ないらしいです。(ということをどっかのサイトで読んだ)
南北戦争の原因等はwikipedia(南北戦争)に色々載っているので、興味のある人は読んでみましょう。
もちろんあまり知らなくても、この小説は大いに楽しめますが。
ちなみにこの小説を読む前の自分にとっての南北戦争は、「リンカーンが奴隷解放宣言して、奴隷制の南部を倒した」というくらいにしか思っていなかったので、黒人奴隷って実際どんなものなのかなんて全く知りませんでした。
「奴隷制を保持している南部は悪だ」なんて稚拙な決め付けも行っていましたね。
どうせ真実は、良いことも悪いこともあるようなものだっただろうに…
南北戦争前の南部農園では、オーナーである白人が黒人奴隷を使役して、綿花などを作る大規模なプランテーション農業が行われていたようです。
と言っても「奴隷」と聞いてイメージされる、「鞭を持った太ったオーナーが、死ぬ寸前まで黒人を働かせる」というようなことはこの小説には書かれておらず、使役者は使役者としての役目と義務を持ち、労働者は労働者としての役目と義務を持っている、という感じです。
能力の高い黒人を尊敬する白人もいたり、貧乏白人を軽蔑する黒人もいたりします。
どちらが絶対的に劣っているとか優れているとかではなく、まあ住み分けを行っていたのでしょう。
もちろん今の目線で見れば、黒人の方が白人よりも遥かに自由は少なそうに見えますが。
なお、黒人奴隷の価格ですが、作中では黒人奴隷の妻と娘も一緒に3000ドルで買ってやる、という記述があります。
当時のドルの価値は説が色々ありますが、とりあえず現代の30倍程度とすると現代日本円だと、3000ドル→90,000ドル→9,900,000円!?(1ドル=110円とする)
奴隷の価格はピンからキリまであったものの、安く調達できるものではなかったのでしょう。
奴隷と言っても病気になったり逃げだされたりするとかなりの損失になってしまうので、衣食住も整えてやっていたんじゃないかと。
この小説は当時の南部の一般人についてのことを、それぞれのスタンスを持つ人物を登場させることで様々な面から描き出しています。
現代日本人にとっては、アメリカ南部の、しかも1800年代後半の生活様式なんてどういうものかなんて知らない人がほとんどだと思いますので、当時の生活や文化を知ることが出来るというだけでもこの小説は読んでいて面白いものです。
著者が南北戦争を生き残った人々に綿密な取材をしたりしていたので、多少は間違いや誇張がある可能性もあるでしょうが、かなり信頼性の持てる描写なんじゃないかと勝手に思ってます。(ていうか小説と実際の整合性をちゃんと調べた研究なんて見当たらなかったし)
黒人奴隷を大勢保持できるような中・上流農園では、オーナーの白人家族が直接肉体労働をすることが少ないので、かなり貴族的な生活を行っていたようです。
昔のアメリカ、と言えばカウボーイのような格好の野心的で野蛮な男たちをを思い浮かべてしまいますが、この小説に出てくる登場人物にはそんなのはほとんどいませんw
全体的に、当時のアメリカ南部は保守的で、男は女を優しく扱う反面、女は男を立てて決して相手より賢いところを見せないようにして男に主導権を渡す必要があったようです。
恋愛結婚というのはヤンキー(当時の南部人の、北部人への蔑称)が広めたもので、伝統的な南部人は親が決めた相手と結婚させるのが普通だとか。
男女についての関係を一言で言えば、一昔前の農村の日本、という感じだったんじゃないかなあ。
南北戦争が起こる前の物語序盤では、そのようなアメリカ南部の貴族的・・農園的な風俗や白人と黒人の関係が描かれています。
南北戦争が始まってからは、アトランタの描写がメインとなっていきます。
戦争が進行し、陥落し、そして再建されていくにつれて、南部の文明はいかにして変わっていくのか。
と思いきや、結論から言えば、南部人の不屈の魂によって無事に(昔の)民主党が勢力を取り戻していくことが出来ます。
物語後半では貴族としてというより、戦争敗者として、というのが多くなっていますね。
まあ再建時代の時にかつての貴族たちが新しく商売を始めたりして必死に生きようとしていたから、そのときに肉体労働をしないという意味での貴族らしさは変わっていったのでしょう。
さて、では登場人物たちへの感想を書いていくことにします。
と言ってもやはりこの作品のメインは「南北戦争当時のアメリカ南部」であって、その背景と人物たちとの関係は独立している、とは言えないと思います。
つまるところ、作品のテーマのために、人物が描かれていったのではないかと、私は思うのですね。
決して、物語調にして娯楽性を高めて大衆に迎合する、というわけではなく!
この作品には多くの人物が登場しますが、やはりメインは主人公スカーレット、スカーレットが少女の頃より思いを寄せていたアシュレ、アシュレと結婚しスカーレットの(元)義理の妹であるメラニー、型破りな性格を持つ(アコギな)実業家のレット、この4人でしょう。
この4人にはそれぞれ共通点があったりなかったりしますが、誰も「平均的な南部白人」というわけでは無さそうです。
メラニーは多くの南部人に尊敬されるほどの南部人でしたが、平均を超えているという意味で。
主人公スカーレットは南部人の型を破りまくる性格でありますので、物語の中では人望はまるで無いですが、こんな性格だからこそ一般的な南部人の色々な面を引き出してくれたような主人公だったのではないかと思います。
絶世の美貌と男を魅了する術を持ちはしますが、南部の淑女に期待される、夫を立てて自分は陰から支える、男と混じって商売をしたりはしない、本心は言わずに隣人との関係を何よりも大切にするなどの性質を、まるで持ち合わせてはいませんw
「抑圧された女性が、自由を取り戻す」みたいな物語は世に多くあるかと思いますが、この小説に関してはちょっとそれとは違うかな、という気がします。
結果的にはスカーレットはあまり報われてないですからね。金はいくらか手に入れたものの。
戦争後に荒廃した故郷のタラで植え付けられた飢えへの恐怖から、アトランタに再訪してからは淑女らしさをほとんど全て捨て去って金集めに奔走することになります。
金のためにフランクと結婚する(申し込ませる)ときは、自分も読んでいて恐ろしかったよ…他の南部人もそう思っただろうが。
淑女らしくない、南部人らしくないことばかりして金を手に入れたので、スカーレットはほとんどの南部人から総スカンを食らって本物のはみ出し者に。
彼女には生きるための実務的強さはありますが、隣人や子供への優しさはほとんどなく、慈愛に満ちて南部人の精神的強さを持つメラニーとは対照的です。
まあでも、戦争後のタラでの生活では、彼女は頼もしくて読んでいてカッコいいと思えましたよ。
嫌なことがあってもくじけず、何度でも立ち上がる肉体的・精神的強さを持っているのがスカーレットです。
精神性としては、恋するアシュレと違って、ものすごく「即物的」
彼女は南部人らしさが無いとはされていますが、生活が安定して貴族的な生活をしている(た)人たちという意味の南部人ではなく、むしろ彼女の父親であるジェラルドが裸一貫で農園を作り上げたときのような、開拓者としての南部人らしさを持つというのが本当のように思います。
アシュレもまた、メラニーと同様スカーレットと対照的な人物です。
アシュレは物腰柔らかな性格の、文学などに精通した貴族です。
南北戦争でもいくらかの活躍を果たしたので、そういう意味での男らしさもちゃんとあります。
しかし再建時代の実務的・即物的な能力が求められる状況では、上手く力を発揮できなくなっていきます。
多くの南部人たち(特にスカーレット)には、否定はされずとも完全には理解されない深い思想を持っているのが、他の南部人とは異なる点ですね。
スカーレットにとっては彼の思想がほとんど分からないからこそアシュレに神秘性を感じ、自分には手に入らない存在だからこそ、愛していたのでしょう。
レットにとってはスカーレットへの愛のライバルではあるものの、アシュレの思想を理解はしています。
私が思うに、アシュレはこの物語の中では、「失われた南部へのノスタルジーと取り残された人々」を象徴していると思うのです。彼には悪いですが、「亡霊」のようにも思えるのです。
ラストシーン、スカーレットがアシュレではなくレットを選んだのは、単にうじうじしたアシュレを見放したというより、少女時代の美しい貴族的南部の生活から完全に決別したことを表したかのように思えるのは、私の行き過ぎた見方でしょうか?
そして手に入らないものだからこそ美しさと神秘性を感じるというのは、失われた過去の南部を描いているこの小説自体のことすら表しているとしたら?
流石に考えすぎか…
レット・バトラー、彼の存在こそがこの作品を愛の物語たらしめるもののように考えられるほど、物語としての意味でのこの作品の根幹を支える人物です。
スカーレット含め多くの他人からの反感を買うようなことはあえてしますが、一言で言えば虚飾が嫌いで実直を尊ぶ人物であります。自身も目的のために本心を隠してお世辞を言うようなことは多いですが…
物語前半ではただの利己的なヤクザもののようにも見えるのですが、「戦争なんて!」と考えていたのに少年兵を見て南部への郷土愛のようなものが目覚めて戦争に参加したり、スカーレットがピンチのときは助けているということを分からせずに助けたりと、本当は騎士道を重んじるような二面性を持つのが、彼の魅力ですね。
最後に明かされますが、レットはスカーレットに普通に愛を伝えると彼女は平気でそれを無下にするから、分かりやすい愛を自分から伝えずにスカーレットの愛をもらいたいというのが狙いのようでした。
その目的のために彼女の望みを何でも叶えてやったそうですが、でもまあ「情婦になれ」と言ったり、その時は深く考えていなかったのかもしれないけど「赤ん坊なんて堕ろせばいい」とか言ったりするのは、どうなんだろうね?
スカーレットは最後にレットの今までの愛に気づき、「私が本当に好きだったのはレットなんだ!」と悟りはしますが、だからと言って彼女自身がずっとレットを愛していたとはやっぱり言い難いと思います。
レットが絞首刑になろうとしているときでも何の感情も湧かなかったらしいですし。
これは気づきではなく、「変化」だと思うのです。
そしてまた、レットがスカーレットへの愛が冷めたのも、愛してないことに気づいたのではなく、変化なのでしょう。
ああちなみに、レットのスカーレットへの最期のセリフは日本語訳だと
「だが、けっしてきみをうらんではいないよ」
となっていますが、原文では
「Frankly my dear, I don’t give a damn.」
(正直に言って、どうでもいいことだ)
となっています。
どうして日本語訳では優しさのあるセリフとしたのでしょう?
この小説全体的な感想をまとめましょうか。
この小説は当時の南部を客観的に描くというのではなく、文化のほとんどを肯定しているので、南部の南部による南部のための作品でもあります。
多くの調査によって南部らしさを出していますから、当時の風俗を知るのにも役立つ歴史小説ですね。
小説としての出来栄えも素晴らしく、比喩や緩急も多くあり、ただ読むだけでも満足出来ました。
私としては、特に序盤の図書室でのスカーレットとアシュレの会話シーン、アトランタからの脱出シーンなどは、臨場感があって読むのが止められませんでしたね。
愛の物語ではあるものの、永遠・不変の愛なんてものがメラニーの愛くらいです。
普通なら愛し合う二人が戦争などの多くの困難を乗り越えるような展開になるかと思われますが、そんなありきたりなのとは全く違うのがこの小説の魅力でした。
男性でも十分楽しめるものだと思います。
いやむしろ、男性のほうが女性よりも楽しめるんじゃないの?と思ったほどです。
最後は表題の「風と共に去りぬ」と対照的な、スカーレットが何度も用いていた言葉で締めることにしましょう。
明日は明日の風が吹く。
人も文明も、何もかも変わっていきます。
良くも悪くも。