四国遍路を終えて

私が39日間の四国遍路を終えて、1年以上経ちました。
ですので新たなる旅立ちの前に、あの旅で感じたことを再認識し、私のこれから目指す人生とか色々書いてみたいと思います。
新年1発目の記事にしようかと思っていましたが、準備不足と書きたいことが膨れてかなり遅れちゃったよ…


 さて2012年にお遍路に行ったわけですが、それより前にも色々な場所を旅行したのですよ?このブログの旅行記にもまとめています。2週間近くの旅行を何回もしていました。
 しかし39日間、歩いて、四国を一周するだなんていう経験の重みは他の旅行よりも遥かに大きく、私の人生経験の中では最も記憶に残ることの一つには間違いなくなりました。お遍路前の記憶に残る痛烈な人生経験と言えば、大学受験くらいでしたかね。しかし受験勉強は大体1年くらいずっとやりますが、お遍路は39日で終わりました。期間の長さだけなら受験勉強に軍配が上がります。が、お遍路の39日間は今までの人生と比べると密度の濃さと長さが尋常ではなく、今でも39日全ての日の行程と寝た場所を覚えているほどです。
 今まで生きてきた人生の日数と比べれば、39日だなんて短いものです。しかし人生経験としては、何年分もの価値があるようにも思えます。
 お遍路の前半は自分の肉体との勝負のようなものでした。毎日毎日足が痛くなり、特に2,3日目なんか何度家に帰ろうかと思ったことやら…。しかしそういうのは中盤に入ると段々改良されてきて、終盤では日の出から日の入りまで歩けるようになりました。そのような成長も実感出来ました。やはり実感できるほどの成長は、吐きそうになるくらいの努力をすると出来るものなのでしょう。
 お遍路で肉体の壁を一つ破ったのかもしれませんが、培った体力は今でも続いているような気がします。いやまあ、やはり長距離歩くとマメが出来たりもしますが、う~ん何だろう、そういう痛みが再度襲ってきても「大丈夫だ」って思えるんですよね。一度経験した痛みだから、というだけでなくそれを乗り越えたという実体験があるから、そう思えるんでしょうかね。とりあえず、体力に自信を持てるようになりました
 私の実家は四国にありますし、四国で18年間を過ごしました。なので生粋の四国人であり四国のことなら何でも知っているし四国に親しみを持っていた、と言いたいのですが、お遍路前はそう言えませんでした。18年間当時の私にとっての四国は、単に自分が偶々住んでいるだけの地域でしかなかったのです。将来は自分の住みたい地域とかを日本全国で探して、そこで暮らしていこうと思っていました。私が四国人である必要性とか、そこに住むべき理由とか、そういうのは全く感じられていませんでした。
 しかし今では、四国というものに多大な関心を寄せるようになりました。これは四国遍路で四国を好きになったっていうのももちろんあります。四国の多くを知ったっていうのもあります。が、それ以上に私は、その土地で生きてその土地の人になるということそのものの素晴らしさに気づいたのです。
 遍路道の途中には多くの街や町や村や集落があります。「どうしてこんな辺鄙な所に…」と思える場所にも人家があったりして、それぞれが生活を営んでいます。しかしじゃあ、「不便だから」って理由だけで住居を転々としたりするのってどうなんだろうって思ったわけです。嫌になったらどこかに行けばいい、ってのは土地に対する責任や愛情が無く、自分の(表面的な)満足のみを満たす行為なのではないか、ということを感じるようになりました。
 他の長期旅行ではなく四国遍路でこういうことを強く感じれたのはおそらく、何度もお接待でもてなされたからでしょう。お接待をしてくださる人たちは、見るからに金もってそうな人、ではなく清貧にその土地で生きていそうな人が多かったように感じます。何と言いますか、その土地にお接待という善意の存在が前提のようになっていると言えば良いのか、「おもてなしはするもんだ」っていうことがすでにわかっているようなものというか。東京でオリンピックの開催が決まり、「お・も・て・な・し」という言葉が流行語にもなりましたが、四国遍路ではそんな流行語が無くともすでに根づききっている「おもてなし」がある、ということを素晴らしく感じたわけです。
 で、話は戻りますが、やはりおもてなしとかお接待とかするのって、やっぱり旅人同士がやるのではなく、その土地の人がやるもんなのですよ。私がもてなされる側だけでなく、もてなす側にもなりたい、ということなんです。なぜもてなすのか?ということ考えるときに、その土地への愛着とか責任も関係してくるのだと思うのです。ああもうこれ以上は言葉にしにくい…
 
 最低でも176回読経した『般若心経』ですが、この経典には『空』が書かれています。千何百年もの歴史を持つものですが、現代日本語訳などもあり、一応は現代人でも理解できるものとなっています。が、やはり理解は出来ても実感は難しいです。
 『空』という概念は高校生の時に読んだ仏教解説本によって知ってはいましたが、ただ知っていただけです。そして今も、そうです。しかしお遍路をしているとき、特に最終日にはその概念を少しだけ実感できたような気がします。でもあの状態が今も続いているというわけではありません。あのときだけに感じられたものでした。おそらく実感は、行動によってのみ得られるものだったのかもしれません。部屋で哲学するだけで凄いものが生まれるなんてことも無いのでしょう。答えなんて元々無いんだから、考えたからって答えに行き着くわけも無く。
 四国遍路はよく揶揄されます。「単なるスタンプラリーだ」って。しかし当時と今の私にとっては、スタンプラリーでも良いと思うのです。私もお遍路前は「単なるスタンプラリーにしたくない!」と意気込んでいました。そのためにお遍路前には仏教の教えとか文化とかの勉強をしたり、読経の練習をしたりもしました。
 が、お遍路をして気づいたのです。きっかけはスタンプラリーだろうと、とりあえずやってみること・始めてみることが大事なのだと。四国遍路にはそういう所謂『にわか』も受け入れる素地とシステムがあり、そしてそこで「何か」を私たちに与えてくれるものなのではないでしょうか。仏教とか土地への愛着とかこれからの生き方とか、興味を抱いたり考えたりするきっかけになってくれます。
 私の四国遍路の記事を読み直すと、聖人君子っぽいところはほとんどありませんでした。修行僧とも思えず、もしかしたら周りに迷惑をばらまいているだけの人間かもしれません。他のお遍路日記を読んでいても、やっぱりあまり聖人君子っぽい人はいないようでした(お遍路漫画とか)。
 遍路道にも色々変化があります。お接待として世話してくれるところもあれば、嫌になって世話をやめたところも。古くから存在する四国遍路ですが、ゆっくりですが状況は変わっています。もちろん悪いほうとも良いほうとも言えませませんが。変化している、だからそこに決まりきったものがなく、完璧なマニュアルはありません。だからこそ存在する責任ある自由、まるで人生のようじゃないか。
 四国遍路は歩いて周る人たちのためのシステムと精神が備わっています。長期の歩き旅としては日本一、いや世界一やりやすいし精神的にも始めやすいものなのかもしれません。他の長距離歩道ではこうは行くまい?
 まとめのつもりが、やっぱりとっちらかってしまったよ…。気持ちと文章の整理って難しいね!

四国遍路

Posted by YU