『小説』桐島、部活やめるってよ 読書感想
桐島、部活やめるってよ
著 者:朝井リョウ
発 行:集英社
発 行:集英社
発行年:2010年
著者が早稲田大学在学中の2009年に書き上げ、第22回小説すばる新人賞を受賞。
今や多くの作品を書き上げて、小説業界に名を轟かせている朝井リョウ先生のデビュー作です。
今作は2012年にも映画化もされ、口コミ等で話題になりロングランのヒット作にもなっています。
今回呼んだのは文庫化されたもので、巻末に「東原かすみ~14歳」が追加されています。
6人の主人公による、1人称群像劇
この小説は、とある同じ高校に通う6人(内、1人は中学時代)を主人公とし、それぞれで章が分かれている構成。
客観的な事実・文章は無く、全て主人公自身が見聞きして考えたことを書いている『1人称小説』ですね。
1人称だから主人公の心の動きが非常に分かりやすく、読者はそれぞれの主人公自身に着目して読み進めていくことになります。
『桐島』はテーマではなく、舞台
読み進めていくと徐々に分かってきますが、タイトルとなっている『桐島』は、男子バレー部のキャプテンであり、彼女持ち。
スクールカーストの中では上位と思われる彼ですが、バレー部を辞めてしまいます。
彼の性格は、同じバレー部だった『風助』の章で何となく推測は出来ます。
しかし、桐島の章はこの小説には無いので、彼がバレー部を辞めた真相や何を考えていたかの真相を読者は知ることは出来ません。
ただ、周りの様子から推測することしかできないのです。
桐島がバレー部を辞めたことは、各主人公たちに影響を与えていますが、その程度は大小様々。
最も大きいのは同じバレー部の風助。
彼以外では、季節が少し進む程度の影響でしかなかったり。
17歳、高校2年生、僕たちはあの時…
見聞きしたものそのままを表すことで、あの時の空気を表現
この小説で多く使われる文章技法と言えば、身近にあるものを羅列することによる、『あの時の空気の再現』でしょうか。
色とりどりのミサンガ。野球部の野太い掛け声。ズボンの後ろポケットの財布。秋と冬を含んだ風。バスケットボールキャッチする手のひら。足音だけが響く廊下。(中略)
一つ一つは何でもないし明確な意味も無いですが、17歳の僕たちは確かにそういうものに囲まれて生きていた。
それぞれが異なる心や過去を持つ中で、それらの存在は僕たちに共通していた。
そういう、何でもないあの時の空気を記録したことこそが、この小説の魅力の一つでしょう。
自分のキャラや位置に不安だった
幾分か成長した高校生であっても、まだまだ世界は狭かったです。
『家』と『学校』なんて、地理的・物理的にはこの世界の広さと比べたらちっぽけなもんです。
でも、そんなことを実感していない高校生たちにとっては、あの世界は確かに世界全体に近いものだったのです。
この文章を書いている私だって、そうだったよ。
この文章を書いている私だって、そうだったよ。
大人たちはよく言っていた。
あなたたちは若い。
真っ白のキャンバスです。
無限の未来が広がっている。
と。
確かに年を取った大人から見れば、高校生は可能性に満ちている。
でも可能性に満ちた人間たちの中で同じように生きていると、やはり差が出てくる。
上位の人間と下位の人間。持つものと持たざるものと。
自信のある人間と無い人間で住み分かれて、スクールカーストが生まれていく。
自分は何をするべきなのか、何を目指せばよいかが分からず、斜に構えたりもする。
がむしゃらに好きなことを追及したりもする。
自由とも不自由とも言えない微妙なあの高校社会の中で、僕らは生きていたよな。
終わりが来ることを分かっていながら、今を生きる
17歳の高校生は、エネルギーを持て余しています。
だから必死で何かをやろうとしたり、部活で青春をかけたりもする。
でも結局、高校の3年間が終われば状況は様変わりして、生涯続くなんてことはかなり少ないもんです。
高校生活の大多数が、その時しか存在しない刹那的なもの。
単行本版での最終編、何でもそつなくこなせる菊池宏樹は、
「そんなのに必死になっちゃってどうすんの?」
と斜に構えてもいました。
しかし同時に、映画に情熱をかけるもう一人の主人公、前田涼也に密かな憧れも抱いていたり。
文庫版で追加された「東原かすみ~14歳」の中の文章、
『自分が好きだから』
これが、著者朝井リョウさんの、何に対しても本気になれない菊池宏樹への答えにしたのだろうと思う。
高校生活、若い時は、他人から自由があると言われる。
だからこそ、何をやるべきか迷うことだってある。
そんな時に役立つ指針は結局、単純な『好き』という感情なのかもしれません。
それは、大人も子供も変わりませんね。
この小説は、あの時の微妙な心の動きや雰囲気を見事に記録した傑作です。
著者が19歳という若いうちに書き始めたことで、執筆出来たものでしょう。
もしかしたら、この小説の存在自体もまた、あの一瞬にしか書けない刹那的なものだったのかもしれない。