こころ 感想
こころ 著作 夏目漱石
日本の小説界の中で、これほど有名な小説は無いでしょう。夏目漱石著作の「こころ」についての感想を書きます。
この作品は中学校や高校の現代文の教科書によく載っているので、どんなに小説を読まない人でもこの作品名は知っていると思います。しかし、この作品は教科書に全編載せられるほど短くありませんので、全編読み通した人は案外少ないかもしれません。ただ、それは作品名を知っている人数に比べてです。日本人全体で「こころ」を読んだ人の数は、かなりのものになるでしょう。
私は基本的に、「知る人ぞ知る面白い作品」というものが好きなのですが、やはりメジャーなものも読んでいたほうが良いですね。面白いサブカルチャーはメインカルチャーを知っていることが前提で進んでいたりしますし。まあ、それ以前に、この作品はただ単純に面白かったですので、メジャーもマイナーも関係ないか。
「こころ」は3章に分かれています。1章では、「私」と「先生」の出会い。2章は「私」の帰省と明治の終わりによる不穏な空気。3章は、「先生」の手紙による過去の独白です。
教科書に載っているのは、大抵3章の「Kの自殺」のシーン辺りです。なので、「こころ」の主人公は「先生」だけだと思っている人も多いのではないでしょうか。本当は、一番初めに出てくる主人公である「私」とは、「先生」に興味を持っている普通の学生です。まあ、この作品は「私」が「先生」を観察して、先生の人間性や人生が明らかになってくる構成の物語なので、先生が主人公だと思っても何ら差し支えは無いのですがね。
この作品は先生のことが主なテーマなので、「私」についての描写は主人公なのに少ないような感じでした。1章は特にその感じが強く、「私」の「先生観察記録」と言っても大丈夫なもののようでした。1章の先生の言動は、一度読み終わった後に読み返してみるとよくわかってきます。
2章は、先生の描写が少し少なくなるのですが、「私」はいつも先生のことを気にかけ、実家にいる人間を先生と対比させて先生の人間性を考察しているようでした。つまり、2章は「私」のことよりも、先生と世間の対比というものに着目して物語が構成されていっています。
この作品の中心は、やはり3章の先生の独白かと思われます。1,2章は伏線のようなもので、3章で爆発力を強める燃料のようなものだったと私は感じました。「私」が先生に対して感じていたことは、3章でそれが正しいことが明かされ、そしてどうしてそのようになったかを懇切丁寧に述べられています。
2章の世間と先生の対比では先生が嫌っていた、世間の「自己の利益を他人の利益と同等のように思う」ことや、理不尽な決まりごとなどが描かれていたりして、その後の3章の先生の心情に繋がっていっているように思いました。
お嬢さんに恋する前の先生は、一言で言うと、自己の利益となるように他人に働きかける他人を激しく嫌悪しており、「自分はそんな人間ではない」と信じて疑わなかったのです。しかし、他人を嫌悪していても他人を激しく攻撃できたりするような人間ではなく、むしろ他人を恐れているような人間でした。お嬢さんの元で下宿を始めた当初はかなりビクビクしていたようで、その様子はどこか現代のネット弁慶のような感じがしました。
しかし、お嬢さんに恋してからは少し変わってきます。性格が少し丸くなってきて、鷹揚になってきます。他人は嫌いだけど、お嬢さんだけは絶対に別だという風に、理論的ではない人間らしさが少し出ていました。
しかし、Kが下宿先にやってきて、Kとお嬢さんを繋げて考えるようになってくると先生の気持ちは大きく変わってくるようになります。
Kは、剛情で意志の強い人になりたがっていて、全ての欲を捨てて精進していました。先生はKに、「能力的にも人間的にも勝てない」と思っていましたが、あまり劣等感は持っていませんでした。しかし、Kとお嬢さんが繋げて考えるようになると、先生はKに劣等感を持つようになり、Kにお嬢さんを取られまいとして勝手に嫉妬するようになったのです。
先生は頑張るKを癒すために、無理を言ってKを下宿先の家に招き、奥さんやお嬢さんとも仲良くなって欲しいと思っていました、が、嫉妬の感情からKが邪魔になってきました。これは、自分が嫌っていた叔父のような、自己の満足のために他人を利用しようとする自己中心的な考えです。自分は決してああにはなるまい、と思っていた先生が、恋という人間らしい感情に支配されて、先生の理想と現実との衝突が起こり始めるのです。
先生はKに「精神的に向上心の無いものは馬鹿だ」と言われますが、先生は「人間らしさ」を武器に反論します。おそらく、Kの精神的に向上心の無いものとは人間の本能に支配されて欲望をむき出しにした人間のことを言っているのでしょう。
Kが先生に、お嬢さんへの愛を告白した後、先生は自分の生涯に関わる過ちを犯してしまいます。
Kは人間らしくかつ精神的に向上心の無いものになって愛を追うか、尊ぶべき自分の過去と未来への力を重視して愛を諦めるか、その両者のどちらに行くかを悩んでいました。そんなKに、「精神的に向上心の無いものは馬鹿だ」という言葉を浴びせかけます。そして先生は、Kがお嬢さんに告白する前に、あせって奥さんに「お嬢さんをください」と告白し、Kは自殺します。
先生は嫌っていた世間とは違うと自分は思っていました。が、Kに対してしたことは世間が自分に対してしたことよりもさらに酷いことでした。先生もそのことに気づいたのでしょう、そしてKの自殺の後、この事件がこれからの自分の人生にずっと重くのしかかってくることも。
Kの自殺の後の先生は、お嬢さんと無事に結婚でき自分の罪を誰にも知られていないにも関わらず、まるで今すぐにでも死にそうな、生気のない人生を送ることになります。全ては、Kへの罪悪感と、世間への嫌悪とそれ以上の自分への嫌悪です。
先生は自我の崩壊を起こしたのでしょう。それはまさしく、先生にとっての世界の崩壊です。もうこの世には何の意味もなくなったのです。だからこそ、自分に近づく人を避けて自分を近づくほど価値の無いものだとしていたのでしょう。
先生とK
先生の心情にもKの心情にも、何か袋小路のような、絶対に正しい道というものを見出せなかったように私は感じました。両者とも頭がよく頑固で正しいことを第一とする人間なのですが、理屈と本能の衝突によってそれらが打ち崩されているようでした。
Kは恋か道かのどちらに行くか迷っていましたが、先生とお嬢さんの結婚を聞いて自殺します。恋を諦めて道を行けばよかった、のような単純な問題ではなくて、両者とも諦めきれないどうしようもなさを抱えて悩んで自殺したのかもしれません。「Kの覚悟」というものは、どうしようもない袋小路を脱する、「自殺」と言う解決方法のものだったのかもしれません。先生の解釈する覚悟ではなくて。
もしくは、Kの自殺の理由は、先生とお嬢さんを代表とした世間に見放されたと感じて、人間らしい「寂しさ」にとらわれたからなのかも。
Kはどうしようもなくなって自殺したように、先生もどうしようもなくなって自殺します。世間の愚かさを憎んでいた自分なのに、愚かな人間のようにKを殺した。
小説冒頭には「頭文字を使うことは余所余所しい」というようなことが書かれています。それを考えれば、先生がKをKだと書いた気持ちが少しわかります。先生はKと余所余所しくなりたかった、忘れたかったのでしょう。しかし、先生にとってKは忘れたくても決して忘れられないし、忘れてはいけないものなのです。
Kの自殺の後、先生は自分を含む全ての世界から見放された孤独を感じ、Kと同じような心情を歩んでいるのかと感じます。そして、明治天皇の崩御の知らせを聞き、先生は自殺します。
当時の人々の天皇陛下に対する信仰は今よりもはるかに強く、天皇陛下はまさに「神」であり、「時代そのもの」だったようです。先生は、明治から現れた現代的思想と過去の思想の衝突の果てに、「明治時代」に殉死したのです。
総括
この作品は、暗いです。清々しさなど一切無いし、また、明日への活力なども一切湧き上がってきません。先生とKは、深くかつ複雑に物事を考えていき、それゆえに袋小路にはまってしまいます。その様子は、「アルジャーノンに花束を」の主人公であるチャーリィを思い出させます。
明治時代になって、人々は過去から存在していた「そういうものだ」というようなものに疑問を持ち始めます。その行動は新しい道を切り開くことができます、が、袋小路にはまりやすくなるという欠点も持っているようでした。明治時代が日本の物質的・精神的な変曲点であったという時代背景を考えると、先生が明治に殉死したのも少しわかるように思えます。
「こころ」という題名通り、この作品は人の心情がよく描かれています。ただ、文学では心情を描くのは当然のことであるので、この作品の名前が「こころ」である必要はかならずしもなかったという思いがよぎったこともあります。しかし、人の「こころ」が肉体に激しい影響を与えてしまったことを考えると、心というものは人間にとってかなり大きな影響力を持っているということがわかります。動物は、自殺をしないけれど、人間は自殺をします。その原因は、「こころ」です。
ちょっと雑記ですが、この記事書くのはものすごく苦労しました。書きたいことや人物の心情の注目すべきシーンが多すぎるのです。それらをまとめて一つの文章にするというのがかなり大変でした。
この小説はよく読書感想文の課題になるようです。しかし、個人的にこの小説で読書感想文を書くのをオススメしません。なぜなら、登場人物の心情のように、読者も袋小路に陥ってしまうような危険性があるからです。読めば読むほど、感心出来る、凄い小説なのですが…。「坊っちゃん」辺りが単純明快であり面白いので、小中学生の読書感想文に向いているかと思います。
こころ (新潮文庫) (2004/03) 夏目 漱石 |