アニメ 新世界より 感想と考察
新世界より
制作:A-1 Pictures 監督:石浜真史
2008年に発行された貴志祐介著作の同名の小説を元にした、2012年10月より放映されたアニメ「新世界より」の感想と考察を書きます。
キャッチコピーは「偽りの神に抗え。」
こちらもdアニメストアで視聴しました。
1話、人が吹き飛んで血だまりになっていくシーンがあります。
『アキラか何かか?』と、いきなり不穏なものを感じられてしまう導入部です。
まあ、事実そうなんですけどね…
全体的には、結構珍しい和風ファンタジーな世界観です。
茅葺き屋根の木造建築ばかりでコンクリートなどはないので、一見中世の日本か?と思えるのですがそうではなさそうです。
また、出てくる用語はカタカナで書くようなものではなく、漢字が使われまくっているようです。
アニメではどのような文字が使われているのか分かりづらいので、そこらへんに関してはちょっと原作小説が読みたくなってきますねw
まあとりあえず、世界観の構築も含めて「こりゃあ凄い質アニメになりそうだぞ!」と思った序盤です。
不穏な世界であることは感じていましたが、4話のミノシロモドキの語りで世界観が一気に分かります。
つまるところ、超能力持った新人類が旧人類の数を減らしまくったポストアポカリプス(崩壊後の世界)。
そして、新人類同士での争いで絶滅しないようにするために厳しく選別と洗脳をしまくっているディストピア(管理社会)。
両者ともど直球のSFのテーマであり、ようやくこの作品がSFであることを身に染めて理解した4話です。
さて、では一気にこの作品全体の感想に移りましょうか。
この作品は主人公の早季が12歳、14歳、そして26歳のことをメインに描いた三部作となっているようです。
この中では特に26歳の頃の人間(便宜上こう書くことにします)と、バケネズミ(便宜上、)との戦いが物凄く面白いし奥深いものでしたので、この部を書くことためだけに今までがあったのだろうとまで思ってしまうのですが、本当はそうではないかもしれません。
12歳の時は幼いながらも世界の真相を知ってしまったこと、バケネズミと人間との関係を描くという点では確かに必要ですが、もう少し分かりやすく人間がバケネズミを奴隷として扱っていること、バケネズミ全体が少なからず人間を恨んでいることの描写があれば良かったのですが…
また、14歳の頃のことでは『業魔』という呪力の漏出が止まらなくなる病、管理社会から脱落してしまうということを、身近な人を交えて描いているのですが、これらは3部と直接かかわるようなものではありませんでした。
シュンが早季の心の中に何回も登場しますが、でもそれは単に「私の愛する人が不治の病で死んでしまいましたわ!」というありがちで陳腐なストーリー以外の何者でもなかったわけだし…
確かにマモルとマリアの子供(らしき人)が3部に登場はしますが、でもそれってわざわざ彼らの子供である必要も無く、教育委員会から不適格な子供を殺すことを命じられたバケネズミがこっそり子供を巣に持ち帰って『再教育』して人間に立てつかせる、という展開でも良かったと思いますしね。
まあ、男同士の関係が気持ち悪くてあまり見たくなかったというのが、私が2部をあまり好きではなかった本音かもw
百合は気高く貴いが、ホモは醜く汚い!
しかし3部は面白いですが、手放しで賞賛出来るほどまでには達していないというか…
たまに物語の筋道と演出がわけわからん時がありました。
どうしてそのタイミングでその演出なのかとか、考えがちょっと突拍子すぎじゃない?と思ったこと多数です。
視聴者の理解力の問題というより、脚本によるもの、原作によるものに思えますが…
例えば終盤だけでも、東京探検時にキロウマルを疑う理由とかもそうですね。「以前、何をしにやってきたのか?」と疑問に思うのはいいですが、間違ったことは何一つしていないのに「ハメようとしているんじゃないか?」と疑心暗鬼になるのはヒドイ気がしました。まあそれは人間の別種への残酷性を表していると言えば、それで片付けられるのですが…
サイコバスターはPKへの唯一の対抗手段らしいですが、単なる毒ガスみたいなものだしそれはバケネズミも使っていたわけだし。
また、早季がサイコバスター入手してから潜水艇無しで戻ろうとしたこととか、
「鏡を見たら気付くんじゃないか」と推測するのもいやいや流石に今までも水面とかで自分の姿を見る機会ありまくりなんじゃないのか、
キシ機構あると言っても、自殺覚悟で特攻すれば悪鬼倒せるんじゃないの?とか、
ていうか後天的教育だけでキシを防げるものなのか?とか
スクィーラが里を襲っても結構な人が残っていたこととか、
残党処理はどうやったのか、バケネズミはゲリラ戦法があるから一筋縄では一掃出来ないんじゃないか、
キロウマルの軍勢は呪力によって無力化されたものの、悪鬼の目に付かないところからゲリラ戦法を一切行わなかったのか、
女王制のハダカデバネズミにしたのはどうしてか、女王制なら女王さえ操作すれば良さそうだから楽?でも結局他の個体が摂政になっていたりするし。
科学者グループは結局どうなった?ていうか呪力あれば奴隷は必要無いんじゃないか?ハダカデバネズミに変えても科学力の蓄積が出来ているじゃないか!核兵器開発して人類に反逆出来るじゃないか!とか。
まあ、色々ツッコミどころや疑問点はありましたね。
呪力というのは単なる強大な破壊力、というのではなくテロメアの修復などのような遺伝子操作も可能という、何でもありの能力です。
なので力の操作、物質の状態などを学ぶだけで無限の使い方が出来そうです。
しかしこういう何でもありの能力って、制限を付けないと陳腐になる可能性が極大なのがネックなんですよね。
この作品では制限として同種への攻撃を抑制する「キシ機構」が登場しましたが、もう少し良い方法は無かったのかと色々思いめぐらしてしまうんですよね~
例えば、キシ機構に加えて「殺人を犯した者への殺人が可能」だとか「精神攻撃によって無力化が可能」だとか。
登場人物が知恵を振り絞って対処法を考えても、それが読者・視聴者全てを納得させる方法を思いつくのはものすごく難しいですから。
というわけで、やはり「何でもありの能力」っていうのは創作物ではかなり使いづらいものなんだなと実感しました。
不満はこのくらいにして、ようやくこの作品のメインテーマへの言及に移りましょうか。
この作品はテレビ朝日のインタビューによると、原作者は「動物の同種への攻撃抑制」についてということが書かれた『攻撃 悪の自然誌』という本が元になっているようです。
簡単に言えば、強力な力を持つ種ほど同種への攻撃抑制が強いということ。そして力が弱い人間は、同種への攻撃抑制が弱いということのようです。
そんなことから「もし人間が更に強力な力を持って、動物行動学のように同種への攻撃抑制が社会的・遺伝子的にも強くなればどうなるのだろう?」と着想し、この作品が生まれたのだろうと私は推測します。
というわけでこの作品には、同種に対する強固な社会的攻撃抑制システム、そして別種に対する攻撃の二つが描かれているのではないかと解釈するのです。
人間と対照的な存在が、バケネズミです。
強大な力を抑制しようとして、徹底的な情報や攻撃方法の規制を行っていた人間。
それに対してバケネズミは一人一人が弱いものの、力への研究と研鑽を続けて、急速な科学技術の発展が起こっています。
最終的にスクィーラ率いる軍勢が人間に立てつくことになりますが、おそらく当初の視聴者は「醜悪な弱者どもが高貴なる人間に逆らうとは…!おこがましいぞ!」と思ったのではないでしょうか。
見終わってみれば、まさにそのような感情操作こそがこの作品の醍醐味というか凄いところでした。
結局バケネズミは破れるし、彼らは今の私たちから人としての尊厳と自由を奪われた「PKを持たない旧人類」であることが明かされます。
今まで視聴者は人間側に同情してバケネズミを怪しんだり、敵対視していたりしたと思いますが、同種に同情するというならPKを持った新人類にこそ恨んでやる必要があったのですが、でも結局それは「バケネズミが旧人類だった」とする情報を得なければ判断は不可能なんですよね…
ラストには「同胞として見えるか?」というセリフが登場しますが、まさにそれはその判断誤差そのものを表したようなものだったのではないでしょうか。
さて、この作品では新人類が旧人類を支配するために、姿形が似通った旧人類へのキシ機構を防ぐために、遺伝子的にも別種に変える必要がありましたが、どうして「ハダカデバネズミ」を取り上げたのでしょうか?
調べてみると、ハダカデバネズミは哺乳類には珍しい女王を抱く真社会性動物であり、植物食で、ガンや老化に抵抗がある、という特徴を持っているようです。
おそらくそれらの特徴は、奴隷として扱うのに適した性質だったから、というのが表向きの理由なのだったのではないでしょうか。
女王制なら権力が集中しコロニーの操作が行いやすい、植物食であり残酷性が低い(と思われる)、寿命が長くて使いやすい、まさに奴隷としてピッタリです。
そしてこの作品の妙技だと思えるのですが、真の理由は「(人間から見れば)外見が気持ち悪い」だったのではないだろうかと思うのです。
新人類にとっても、可愛い犬や猫ならば殺すのに少し躊躇しますが、気持ち悪ければその躊躇も薄らぎます。
そして視聴者にとっても外見が気持ち悪いやつらに対して同情も薄れますので、作品としても最後のどんでん返しの効力を強く出来る、というのが原作者がハダカデバネズミを取り上げた理由だったのではないでしょうか。
外見が異なることでの差別は、現代社会でも多く行われていることです。
一番分かりやすいのが、人種差別。
黄色人も白人も黒人も同じ種ですが、外見が異なります。
種が同じであることを知らない状況なら、「同胞として見えるか?」ということです。
でも今の私たちには、「同じ種である」という情報を得ているから、同じ種であると理解しています。
この作品は主人公早季が36歳の時に、1000年後に宛てた手記という体裁であり、そのタイトルが「新世界より」となっています。
普通なら時間的意味から「旧世界より」とか「新世界へ」というのが正しく思えます。
しかし思い返せばこの作品は早季が12歳、14歳、26歳の頃の三部作であり、どの時も彼女にとっては世界への認識そのものが大きく変わるタイミングでした。
私個人の勝手な推測なのですが、手記のタイトルでの「世界」というのは、「人間個人の内部世界」の意味だったのではないかと思うのです。
そう解釈すれば、「新世界より」というのは「あなたが知らない世界より」、「あなたの内部世界を変えうる時代より」というような意味に近いものだったのではないかなあと思いますし、3部と直接関わらない2部の意味も出てくるんじゃないかと考えるわけです。
ああもちろん、この作品としてのタイトルには上記に加えて「未来の世界より」という意味も含まれていると思いますが。
最後の最後、「想像力はすべてを変える」という言葉が登場します。
この言葉はどう解釈すればよいでしょうか?
呪力という絶大な力を制御された力として発露するには、強固な有意識(想像力)が必要です。
だからこそ呪力使用者にとっては想像力が最重要であり、あのような標語が備え付けられていたのでしょう。
というところが表向きの理由でしょうが、ラストに出てくるのでもっと意味がありそうです。
完璧に私個人の解釈ですが、あれは早季やバケネズミたちが抱いていた、広い意味での「理想」の意味も含まれていると思うのです。
想像し、理想を思い浮かべて、それが行動に繋がれば、世界を変えていくことが出来ます。
だから、世界を変えるには、まず想像する必要があるというのが、最後のメッセージのように解釈するのですがどうでしょうか?
思い返せば、生態学的、行動学的な知見の多い、珍しくて斬新なSF作品だったなあと思います。
でも正直言うと、ストーリー構成自体はもう一押しな気がしました。
バケネズミの存在やスクィーラの立ち位置などは物凄く面白くて興味が惹かれましたので、視聴して良かったなあと思っているのには間違いありませんがね。
アニメよりも原作小説の方が世界設定への記述が詳しいようですが、アクションや異形たち、戦争の迫力の描写を考えたら、アニメ化してくれてありがたいものでした。