『老人と海』の感想、あえて複雑な心情を排斥した誇りの物語
アメリカの作家、アーネスト・ヘミングウェイが1951年に書いた短編小説、『老人と海』を読みました。
ヘミングウェイがノーベル文学賞の受賞に寄与した作品であり、魅力は折り紙つきの作品です。
解釈は色々ありますが私はこの小説は、素朴な生き方の美しさと誇りの物語だと思います。
あらすじ
メキシコ湾で働き住んでいる漁師の老人は、日頃は少年を助手にして釣りをして生計を立てていた。
数か月にわたり不漁が続いていたがある時、助手無しで一人で沖に出て釣りをすると、巨大なカジキが食いついた。
老人は過去の様々なことを思い返しながら、丸3日間の死闘を続け、ようやくカジキを仕留める。
町に帰る途中、血の匂いに寄ってきた何匹ものサメを追い払っているうちに、カジキの肉はほとんど食い尽くされる。
町に帰ってきた老人は自分の小屋で休み、少年や他の漁師が老人が成したことを様々に評する。
老人はライオンの夢を見ていた。
老人とカジキの、静かで真剣な死闘
小説の半分ほどが老人とカジキの戦いのシーンであり、ここがメインとなります。
現代とは違って道具や船が強力でなく、船はオールと風の力で動く帆船、電動リールも無いので人力で綱を操作しています。
だからこそ釣りをするには漁師自身の肉体的な・人間的な総合力が不可欠です。
そんな装備で自分の何倍もある巨大な魚を一人で釣り上げるなんて、普通は無理なことです。
老人が全ての力を振り絞ってカジキと戦うシーンの躍動感の描写は、流石は文豪だなと、思えることでしょう。
しかしこの小説が内包するものはそれだけではありません。
使命を全力で全うしようとする、生物の誇り
老人はなぜカジキを釣り上げようとしたか?
確かにこれだけ巨大で美しい魚を町に持ち帰れば、多少の釣具を失っても元が取れるくらいの値で売れます。
ずっと不漁続きだったので懐も寂しくなっていたから、それを満たせるでしょう。
また、哀れな目で見てくる他の漁師に、助手の少年に、自分の栄誉をひけらかすことが出来ます。
社会的・経済的な単純な目で見ればそのような利点があるのですが、老人がカジキを釣り上げるシーンではそんな野望はほとんど見せません。
巨大な魚がかかったから、釣る。
己が漁師だから、釣る。
自分の体力や漁具に多くの損害を出したカジキをただの『獲物』だと見れば、恨みつらみが出るかもしれません。
しかし老人は一切そんなことを考えていません。
真逆です。
あれ一匹で、ずいぶん大勢の人間が腹を肥やせるものなあ、とかれは思う。
けれど、その人間たちにあいつを食う値打ちがあるだろうか?
あるものか。
もちろん、そんな値打ちはありゃしない。
あの堂々としたふるまい、あの威厳、あいつを食う値打ちのある人間なんて、ひとりだっているものか。
老人はカジキを殺そうとしますが、漁師として、同じ生物としては愛しています。
どれだけの時間と体力を使ってでも生き延びようとする力強い肉体と精神に、老人は非常な敬意を表しています。
結局、釣り上げたカジキは汚らしいサメどもにボロボロにされたから、経済的には骨折り損のくたびれ儲けに見えます。
しかしラストシーンでは、老人はライオンの夢を見ます。
解釈は様々ですが、悪くない気分であることは確かでしょう。
そこには漁師としての誇りが表されていることでしょう。
ネット上の感想文を読むと、観光客と給仕の会話で「サメが…」と言うシーンから、
「もしかして老人が釣り上げたのは、実はサメなのか?」
と推測する人々がいるようです。
自分の解釈は全く違います。
単に、給仕はつたない英語でボロボロになった経緯を説明しようとしたら、無知な観光客が「ああ、サメなのね」と早合点しただけでしょう。
観光客ならいざ知らず、他の漁師が硬骨魚類と軟骨魚類の骨格の違いを見誤るか?
このシーンは、表面しか見えない大多数の人間には一人の人間やその成したことの全貌を把握出来ず、老人とカジキのようなドラマは実は身近な人にも存在することを表している、と考えます。
内省の否定と肉体や行動への信頼
新潮文庫版には訳者(福田恆存)による解説が載っているのですが、そこでヨーロッパ文学とアメリカ文学の違いが述べられています。
非常に簡単にまとめると、「ヨーロッパ文学はお互いの過去や文化から紡がれる、内省の物語」であるようです。
雰囲気的には、抒情的な、粘っこい、女性的なものが多いのです。
対してアメリカ文学はカラッとした、通俗的で、男性的なものとなってます。
(ヘミングウェイは)精神とか思考とか自意識というものを一切認めないのですが、その否定のしかたが精神を精神によって、思考を思考によって、自意識を自意識によって否定するのではなく、それらすべてを肉体や行動への無意識的な信頼によって否定しているからです。
作中でも老人は様々なことを考えますが、何度も「いいや考えるな、今は釣り上げることに集中しろ」と書かれています。
まさにヘミングウェイが描きたかったのは、これなのではないかと思うのです。
ヘミングウェイも老人自身も、人生の意味などを追い求める哲学よりも、生物としての素朴な生き方への美学を追い求めているんじゃないか。
この「老人と海」は、漁師つながりなのもあって、三島由紀夫の『潮騒』と似ていますね。
潮騒には恋愛描写がありますが、最後の一文が、老人と海に通じるものがあるように思います