小説『敦煌』 感想
敦煌 作 井上靖
1959年に井上靖さんによって書かれた小説「敦煌」の感想を書いていきます。
敦煌とは、中国甘寧省北西部の都市で、シルクロードの分岐点として栄えたオアシス都市だそうです。古代より存在するシルクロードの起点となる、かなりの歴史を持った街です。
この小説は、そんな交通の要衝にある敦煌で見つかった『敦煌文献』の、その由来を主題としています。敦煌文献とは1900年に敦煌近くの石窟で実際に見つかった大量の書物であり、それは多くの言葉で書かれ、他の場所では保存されなかったいろんな種類の文書だったため、かなりの歴史的価値を持ったものです。
小説の舞台となるのは、中国が「宋」であった時代、当時の中心都市であった洛陽から敦煌までの場所。そこには「西夏」という国があり、宋とはまた違った文化などを持っていました。
主人公は趙行徳と言い、中央での試験で居眠りして失格となった彼が、運命に導かれて、西夏に行くことになります。
では感想です。↓
敦煌 (新潮文庫) (1965/06) 井上 靖 |
なんと運命的で、歴史ロマンを感じさせる小説か。
と、読み終えて思いましたよ。ここで言う「運命的」とは、ご都合主義的に主人公が運ばれていくというわけではなくて、「人生とは自分が思いもしなかった縁によって、一人ひとりが与えられた役割を果たしていく」というような意味です。
行徳は最初、試験に落ちた後に市場で、殺されそうになっている西夏の女に出会います。市場で出会った西夏の女は死を全く恐れない強い人間であり、行徳はその様子を見て激しく心を揺さぶられます。
そして西夏に興味を持ち、西夏へと旅立ちます。戦に巻き込まれ、朱子王と出会い、そして戦をしたり西夏のことについて知っていきます。最終的に、行徳も市場の西夏の女と同様に、死を恐れないかつ無気力にもならないような人間へと変わっていきます。一番最初に感動した西夏の女のような、刹那的でドライに見えるような人間に変わっていくのです。
そんな、今一瞬のことしか本気で考えないように見えた行徳や西夏の人間が、永遠を象徴する「書物」を遺すことになったのには、激しい歴史ロマンを感じましたよ。
砂漠ばかりの土地である西域諸国は昔から戦争の多い土地であり、ところどころに城跡や町跡が残るような、繁栄と滅亡が繰り返された場所のようです。そんな中を、駱駝の隊商が歩いていく…。
永遠なんてどこにもなくて、全てが移り変わる無常の世界だと見える西域諸国。しかしそんな場所でも、いや、だからこそ歴史があり、人にはほとんど知られていないけれど本当に存在していた幻のような事象がそこかしこにあったのでしょうね。
個人的にはほとんどの人に知られた観光地を行くのはそんなに好きではなくて、一見何でもないようだけれど一生記憶に残るような、そんな場所が好きなんですよ。そんな自分だからこそ、歴史があるのかないのかわからないような場所で「実はこんなことがあったんだ」と教えられると、自分の無知さと世界の広さを実感できて純粋な好奇心が湧いてきます。
歴史ロマンを感じさせた要因には他にも、沙漠の様子の描写が挙げられると思います。
どこまでも砂の丘陵が広がる砂漠の中を駱駝の隊商が歩いていくシーンには、やはり世界の広さと偉大さと、栄枯盛衰の無常感を感じられましたよ。「この砂の下には、幾人が飲み込まれ、どれほどの数の夢が埋まっているのか」「この広い孤独な世界を、人間は足元おぼつかなく歩いていくしかないのか」
終盤、月夜の沙漠の中で、行徳と尉遅光が首飾りを奪い合うシーンがあります。月夜の砂漠の孤独な美しさと、どこまででも生きていこうとする意志の強い人間と、「どうなってもいい」と考えているが精神面において本当に重要なものを守り抜こうとする人間の二人の対比が素晴らしすぎでしたよ。
もしこの二人の争いが現代の街の中なら、さして感動はしなかったでしょう。この西域諸国という状況の中で行われたというのが、魅力の根幹をなしていたのではないかと私は思いましたよ。
文庫に載っている解説では、こう書かれていました。
この物語の本当の主人公は敦煌という町自体である。そして歴史というものが、興亡を問わず常に物悲しいものであるという主調が全体を貫いている。
これはまさにその通りでしょう。歴史は物悲しく、絶対に正しい真理や結果を得られないまま終わるものですから。
しかしだからこそ、そんなもの悲しさに、人々は激しく心を揺さぶられるのですね。あんなに頑張って生きてきた人々や街も、最終的には死んだり変わったりしてしまうのですから。
ちなみに、この小説を読んでものすごく中国西部に行きたくなりました。というか、いつか絶対に行きます。行って、趙行徳のように駱駝に跨って、色んな町を見ながら歩いていきたいです。