疾走 上 感想
雑記
他のブログは最近のことについての記事を書いて人気を博しているというのに、このブログはその真逆を行ってます。これでいいのか!
まあいいか
最近読んだのは重松清さん作の疾走 上。
何か暗くなる本ないかな~と探して見つかったのがこれです。もう表紙からしておどろおどろしいです。下巻の表紙と組み合わせると、一人の奇怪な、何かを叫んでいる表情が出てきます。この絶望の叫びのようなこの表紙が、この小説の物語の性質を示唆しています。実際、この物語とこの表紙は見事にマッチしてしまうことが、読んでいると理解できます。
この本の文章には小説らしく多様な情景描写がはさまれているので、なかなか読み応えもあり登場人物の心の変化による物事への見方なんかも少し理解することが出来ます。
そしてこの小説の文体で最も特徴とすべき点は、主人公のことを「おまえ」と呼んでいるところです。最初から最後まで、この本の作者が主人公に呼びかけるように、「おまえ」と表現し続けています。一体それが何を意味しているのか。
「シュウジは~をした」と「おまえは~をした」とでは若干読者に対する情報の与え方が違ってくるでしょう。「シュウジ」だとこの物語は読者とは隔てられた登場人物の一人としてのシュウジの物語だと感じ、「おまえ」では読者とわずかに繋がりのようなものを持ったシュウジ、つまりみんなに見てもらっている主人公のような感じがします。ただの私の思い過ごしかもしれませんが。
物語では、主人公シュウジがいろんな人に出会い、感じ、そして不幸が降りかかってきます。あえて不幸という抽象的な表現をしましたが、この物語では「不幸」と呼ばれる出来事を次々と描いています。まるで不幸のカタログを見ているような、それほどに不幸の後にまた不幸が降りかかってくる様子がずっと続きます。
シュウジはもちろん英雄でも無ければ、人間離れした意志を持った人間でもありません。彼は不幸を受け止め、そしてだんだんと歪んできます。それは通常では当然のことです。周りの人ほぼ全てに虐げられ、裏切られ、蔑まれる日々を思春期の少年が送れば、普通の人のような健全な精神を持つことなんて不可能です。
シュウジは「ひとり」になりました。ひとりであり続けたくないのに、少年は「ひとり」で苦しみ続けます。少年には「ひとり」になることで、全てを失いかけているのです。
それでも物語はまだまだ続きます。少年の物語はいつ幸せな場面が訪れるのか、そしていつ少年の物語が完膚なきまでに破綻してしまうのか。それはまだわかりません。
疾走 下 感想
疾走 上 (角川文庫) (2005/05/25) 重松 清 |