イストワール ストーリー考察

 考察と言うより感想?


 「イストワール」は物語の物語です。私たちがかつて想像していた物語たち、捕らえられたお姫様を救う勇者、世界中を巡る大冒険、海賊が残した財宝など、これらの物語は私たちを楽しませ、涙を流させ、勇気を出させました。
 かつての私たちが「現実」だと思っていた物語たちは、いつしか忘れられて思い出されることも少なくなってきます。それすなわち、物語にとっての死。役目を終えた物語はこの世界から無くなっていきます。
 しかし物語は確かに存在していました。私たちがあの時感じた想いは本物なのです。ですから、そんな物語たちをただ殺していくのはあまりにも可哀想です。物語と過去の自分のために、たまには思い出してあげてください。
 「イストワール」が語りたかったことは上記のことでしょう。そのためにイストワールという物語は作られたのでしょうね。
 思えば、物語というのは何かを伝えるために存在しているわけです。童話は世の中に対する理解と道徳を子供に育ませ、大冒険の物語は人々に勇気と好奇心を与えます。それらの想いを伝えるのが物語の役目であり、存在理由なのでしょう。
 さて、ではそんなイストワールの伝えたかったことを伝えた、主人公のこととエンディングについて少し考察をしてみます。
主人公は何者なのか?
 この問いに対する単純な答えで言いますと、主人公は第一世界存在でありこの世界を作った作者です。私たちが夢想した自分だけの物語を持つように、彼もまた物語を持ち、その物語がイストワールであったのです。
 しかし、ゲーム内に出てくる「イストワール」では第一世界存在はただ夢想して世界を作ったのではなく、泥を切って彼女を作ったり他の世界存在に対して何かと指示を出したりしています。そして最後には「イストワール」から離れて現実へと戻ります。これらのことを考えると、彼はただの作者ではなく自分自身もこの物語に入って登場人物になっています。
 そして彼が現実に戻るとき、つまりこの物語にかまうことを一時的にやめました。しかしそれでも彼女はこの世界を発展させ続けました。しかしこれではおかしい、作者の手を離れて勝手に発展する物語の存在はおかしいと思いましたが、それこそがイストワールというゲームの物語なのだろうと思います。物語が勝手に発展し、その作者が物語にまた訪れるという物語。
 つまり主人公はイストワールというゲームに出てくる主人公であり登場人物、そして「イストワール」という世界と物語を作った作者なのです。・・・ちょっと意味のわからん感じになりましたが。
エンディングについて
 時間の進み方や彼女の倒し方でエンディングがころころ変わるのですが、ひとつずつ考察。
 ラストバトル第一形態では、彼女はいろんな呼び声に囲まれて彼の言葉が届かなくなっています。それらはおそらく彼女のうちから出てきたもの、つまり彼女自身の声なのだと思います。彼女は自分の声により心を閉ざしてしまったのだと推測します。その結果彼女は世界を崩壊させていこうとしたのでしょう。気が狂いながらも、愛する人が来て欲しいと願って。
 呼び声たちを倒して彼が彼女を呼ぶと、晴れてベストエンディングを迎えます。このエンディングが最もイストワールのエンディングの中でハッピーエンドとされています。このエンドでは彼女は正気を取り戻し、世界の崩壊もあまり進まないうちに彼女を止めたことによってイストワールの世界の被害も最小限に抑えられたことでしょう。彼女の願いが無事にかつ迅速に果たされたこのエンディングこそが、最も彼女にとっての最良のエンドでしょう。
 
 ラストバトル第二形態では、彼女は物語を育むための「憎悪の種」により蝕まれています。この形態になるには、姿なき声をイストワールから抹消するか、一次崩壊と二次崩壊の間に鏡の間へ行けばなります。ではここで出てくる憎悪の種とは一体なんなのでしょうか。魔王ディースに会いに行くと「憎悪の種がひとつ足らない」と言います。最初この犯人は姿なき声だと思ったのですが、彼を抹消しても憎悪の種は無くなったままなので、彼が犯人ではなかったのでしょう。では一体誰が彼女に憎悪の種を与えてしまったのか?
 この物語に出てくる登場人物たちを一人ずつ考えても、そのような輩を見出すことが出来ません。ということは、憎悪の種を彼女に与えたのは、彼女自身ということになってしまうのでしょうか?そして、彼女が憎悪の種を得たから一次崩壊がおこったのか、一次崩壊が起こったから憎悪の種を得たのか。 
 ラストバトルでは憎悪の種から生まれでた憎悪の帳をすぐに倒すと、彼女は正気を取り戻します。しかし憎悪の帳をすぐに倒せないと、彼女は仮面を形成してしまいます。こうなるともう彼女は正気を取り戻すことは出来ずに、主人公が彼だと分からないままエンディングとなってしまいます。仮面を形成してしまうということは、他人を拒絶することに繋がると私は思います。つまり彼女はそのとき仮面を形成することにより、彼への想いを断ち切って完全に狂ってしまったのだろうと思います。そしてその仮面の形成には十二悪魔将を倒した分だけ早くなるのですが、一体なぜ悪魔将たちが彼女の仮面の形成に関わるのでしょうか?
 十二悪魔将は魔王ディースに仕えていたものたちでしたが、魔王ディースが英雄に敗れた後は各地域に散り散りになっています。英雄たちに力が封印されていながらも、各地で大きな影響を及ぼしたりする悪魔将もいます。そしてだからこそ、悪魔将たちは悪役でありながらも、物語に刺激と味を加えるために物語には欠かせない存在となっています。彼女と悪魔将たちの接点はそこにあると私は感じます。
 
 彼女が仮面を形成するということは、何かを拒絶するため。ここではおそらく、彼のことでしょう。ということは彼が悪魔将たちを倒すことは、彼女が彼を拒絶するのを促進するという意味を持っているのでしょうか?つまり悪魔将を倒すことは彼女にとっては嫌なことだったのでしょうか?
 そのように考えていけば、少々妄想の余地が出てきます。以下、私の妄想を書いていきます。
 彼女は物語を育むために悪魔将を作った。それは作者の彼も納得するだろうと思い、彼らは物語の中の英雄や民衆たちに倒されて感動的な物語を生むだろうとも思っていた。確かに彼らは人々に倒され、物語を作っていった。しかし、そこで第一世界存在でありこの物語の作者である彼がやってきた。彼は人々に倒された悪魔将たちを自分で倒すことによって、悪魔将たちは彼らの物語を否定された。そのことは狂った彼女にとっては、彼が自分に背いた、として受け取ったのではないのでしょうか。
 ラストバトル第三形態ではすでに仮面は形成されて、姿なき声が彼女をそそのかしています。姿なき声は彼女をこの世界を崩壊させようとするラストボスに演じさせようとします。そして姿なき声は彼女をそそのかした張本人として、イストワールという物語の中で重大な役割をもった者として物語のなかに記憶されることになりました。それは物語を語ってきた姿なき声が持った最後で最大の望み。
 この世界の正真正銘の最後の戦いが始まります。彼女の強さ、それはイストワールというゲームの中でも最大のものです。それはまさしくラストバトルにふさわしい戦い。「主人公たち」と「ラストボス」が全ての力を振り絞って戦います。
 そして彼女の仮面を打ち破った後、最終章がないままのイストワールを装丁していると彼がイストワールに書く結びの言葉を書くことが出来ます。そのとき、「ただいま」と書くと彼女は正気と記憶を取り戻します。(完全に戻ったのかは定かではありませんが)
 ずっと待っていた彼からの「ただいま」という言葉。それはこの世界でさびしく待っていた彼女にとって最も嬉しい言葉でしょう。そして忘れられていた物語にとっては、物語をまた楽しんでくれるという「思い出す」という行為は物語の存在理由を見出してくれるものです。彼女を救う、という目的ではベストエンディングが最良でしょう。しかし、物語を楽しむという行為においてはこのトゥルーエンディングこそが最も良い結果となったのではないかと私は思います。
 
 私はこれまで「物語の物語」をコンセプトにした物語に出会ったことは無かったので、イストワールのエンディングは衝撃的なものでした。そしてその結果、私はいっそう「物語」というものを好きになることが出来ました。これまで「面白い」物語や「悲しい」物語といった、物語を一元的な見方でしか見ることが出来なかったのが、物語を「物語」として見ることが出来るようになりました。その見方は作者にとっては不本意なものなのかもしれません。しかし私はそのおかげで物語をさらに愛することが出来るようになったのです。
 物語の持つ力、それは現実には存在しないものですが、確かにそれは私たちの心に響き、共鳴します。その心の中で育まれた想いは、人の力として還元されて現実に作用するものでしょう。その意味では、物語には無限の力があふれている。だからこそ私たちは、今日も物語を楽しんで現実で生きていく力を得る。そしてそこで得られた感動は、さらに新しい物語になって更なる感動を生んでいく。人間がこれまで多くの文化を生み続けてこれたのは、おそらくその物語の感動の連鎖でしょうね。
 さて、では私も私の物語に帰ってみることにしましょうか。若かりし日に作ったあの恥ずかしい妄想も、それは確かに物語であり存在していたのですから。
イストワール感想

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Posted by YU