グミ・チョコレート・パイン チョコ編 感想
雑記
アークザラッド3で逃した仕事を発見・・・
10時間がぁ~
チョコ編はグミ編の続編であり、グミ・チョコレート・パインの3部作のうちの2番目です。
グミ編では、主人公たちのことと賢三と美甘子との出会いと「すっげーハードなノイズバンド」のためのメンバー集めが書かれています。チョコ編では、美甘子の映画デビュー、バンドの見学と結成、そして大橋賢三の堕ちてゆく様が描かれています。
グミ編では悶々としていながらも希望をもっているままで終わりましたが、チョコ編ではかなりやばそうな雰囲気で終わります。
ついに悶々少年たちはバンドを結成してそれぞれの役割を見つけていきます。タクオは曲を、カワボンはギター、山之上は歌詞を。しかしこの物語の主人公、大橋賢三だけがバンドの中で自分の役割を見出すことができませんでした。これまでの映画や小説の体験から自分も歌詞を作ってみようかと試みたのにも関わらず、その結果、山之上に敵うことができませんでした。
それからの賢三は精神状態がおかしくなりました。性的妄想がかなりのサディスティックになり(読んでいて気持ちが悪かったです・・・)、教室内で誰も自分のことを笑っていないのに自分を笑っていると感じたり・・・
そしてついに、美甘子に追いついてやる!と考えていたのにもかかわらず、美甘子のブルマーでオナニーをしてやろうとポコチンを握ります。チョコ編はそこで終わりです。
美甘子でオナニーをする、というのは一体どういうことなのかというと、大橋賢三にとって美甘子はただ自分の性欲を解消する普遍的な女ではなく、彼にとって憧れであり目標である聖なる女なのです。そしてそれと同時に、美甘子に追いつくという自分のやる気やプライドの一端そのものでもあると考えています。
つまり美甘子でオナニーすることは何を指すことかというと、オナニーによって美甘子は賢三にとってただの女ということになり、彼女に追いつくことの意味を無くす行為なのです。
女の方にはわからないかもしれませんが、男は好きな人でオナニーをすることは極力避けるのです。もしオナニーをしてしまえば、彼女を自分の汚い性欲で汚してしまったことになり、純粋に「好き」、という感情に確信をもてなくなるのです。だからこそオナニーは別に自分とは密接には関わらない人を対象とすることがほとんどなのです。だから男は女を、オナニーの対象とする普通の女と、汚してはならない聖なる女にわけているのです。もしオナニーをしてしまえば、自分にとって彼女は普通の女になり、自分とはあまり関わりが無いということを認めてしまうのです。
賢三が美甘子でオナニーをするということはそのような思惑があったのでしょう。美甘子でオナニーをするということは、華々しく映画デビューした美甘子をただのアイドルだと認識し、彼女に対しての特別な感情を捨て去ることです。賢三の「すごいことをやる」意義は美甘子に恋したことで、凡人を見下すためから美甘子を追い抜いてやることに変化したのですが、オナニーによってその意義はなくなります。賢三の、凡人とは違うから自分はすごいことをやるという意義は無くなり、自分はただの凡人以下だと認めてしまう行為でもあるのです。
たかがオナニー、されどオナニー。何千回のうちのたった一回のこのオナニーには、このような深~い思惑があるのです。賢三が今までの自分から決別し、ただの凡人として生きていくのか。その結果は次の「パイン編」で描かれます。
グミ編
パイン編
グミ・チョコレート・パイン チョコ編 (角川文庫) (2000/09) 大槻 ケンヂ |