この世界の片隅に 総括

読み直したら、総括記事長くなりすぎた…
でも、書いておきたいんだ!


  「この世界の片隅に」の舞台となったは、原爆が落とされた広島の南南東に位置し、明治時代には第二海軍区鎮守府が置かれ、東洋一の軍港として呼ばれていたそうな。戦艦大和もここで建造されたそうで、日本軍の要所の一つのようでしたね。
 そんな重要な場所の呉だからこそ、住民が戦争事業に直接携わることが多かったのではないかと思います。工場で働くこともあれば、軍人相手の商売もあれば、下級軍人が住んでいたりとか。住民の戦争に対するやる気とかそういうものは、普通の山奥の村と比べれば大きくて、戦争に協力的な人も多かったりしたのだろうかなと、この漫画を読んで思いました。いやもちろん、呉の住民が太平洋戦争を賛美していたという単純なものだけではなくて、海軍の町で暮らしてきたからこそ、そういう習慣があったということなのだと思います。
 そんな背景を持っている呉だからこそ、この漫画の舞台となったのでしょう。海軍の要所、広島に近いという二つだけの少ない要素ですが、その二つがいろんなものに対して複合的に作用し、いろんなドラマを作り、描くことが出来たのでしょう。そのドラマとは例えば、水兵となったすずの幼馴染の水原とすずの関係や、主に水兵を相手にしていたと思われる遊女のりんとすずの夫の周作の関係、工場などが多かったからこそ米軍による空爆があったこと、原爆が落とされた広島との関係など。戦争に近い場所だからこそ、私生活との距離が近く、生活の奥深いところから戦争というものを見ることが出来たのでしょうかね。
 この漫画は主人公が主婦であるため、「生活」の描写が他の戦争物と比べればかなり詳しく描かれています。物が無かった時代、現代と比べれば前時代的で手作業がほとんどのように見える時代、不便だからこそ近隣の人たちが助け合っていた時代、空爆による被害を抑えるために発達した防火・避難体制が整っていた時代。これら現代とは異なるものが詳しく描かれ、その詳しさは戦時の生活を紹介している資料館にも匹敵していると言えます。単行本最後に載っている参考文献の数がそれを表しているでしょう。個人的に、負けました。
 さて、これら生活の描写はどのようにストーリーに関わってきたのかと言うと、それは作者の「あとがき」に答えが載っていると思います。

わたしは死んだことが無いので、死が最悪の不幸であるのかどうかわかりません。(中略)そこで、この作品では戦時の生活がだらだら続く様子を描く事にしました。そしてまず、そこにだって幾つも転がっていた筈の「誰か」の「生」の悲しみやきらめきを知ろうとしました。

 「生活」とは、「生」に密着したものです。生きるには、食べること、大自然に打ち勝つ衣類と住居を得ることが重要となります。そしてそれらを得るためには、他者と交流して助け合っていくこととなるため、やはり他者も重要となります。これら全ての「生活」は、人にとっての「生」そのものくらいの価値のため、「生」のきらめきを知るために「生活」に着目するのは考えてみればごく普通のことです。
 私たちは全て、「生活」を行っています。一人暮らしでぐうたらしている人も飯は食うし服も着る。家が無い人だって、家が無いなりに生きる方法を探し、生活しています。私たちにとって、生≒生活です。生としての実感は、生活の中に詰まっているのでしょう。
 私たちは「死」をどのように思っているのか、ということもこの漫画で考えさせられます。アフリカで部族間紛争で数万人死ぬことと、自分の愛する人一人が死ぬことの悲しみは、後者のほうが大きいでしょう。それはなぜかというと、死んだものや失われたものがどれだけ自分にとって大事だったり影響してきたりしたかが、死に対する悲しみの価値基準のようだからです。どれだけ人が死のうが、それが全く自分の実生活に関係していなければ、悲しいと思うことも難しいです。太平洋戦争で日本人だけで何万人死んだと子供が大人に教わったって、「だからなに?」で済まそうと思えば済ませられるのです。ただ子供がそうやって言わないのは、大人が「悲しい」という答えを期待しているからなのかもしれません。子供にとって何十年も前の死人の数よりも、目の前の大人に従って相手の感情を害さないことのほうが大事なのだろう、と。
 だからこそ、「生活」によって当時の生を実感し、そしてそこから死の実感も得ようとしたのがこの漫画なのでしょうね。知っていることと実感は違います。心の奥底から自分の感情をそのまま操作するのが、「実感」だと思います。人や物、もしくは時代そのものを失うこととは一体どのようなものか?それをただ言葉として知るだけでなく、心の奥底からの「感じ」をどうにかしてそのまま読者にも伝えられないだろうか、ということがこの漫画のメインテーマとなっているようです。
 
 色々なものを失ったすずは、「死の実感」を得ました。それはすずの命を絶たせようとするほどに。ですが、すずが失ったものはすずの全てではありません。それなのに自暴自棄になったのは、失ったものがすずにとって大きかったからというだけです。悲しみは、死の数とはイコールではないのです。
 深い悲しみに囚われていたすずが見出した「生きる理由」とは、失ったものを記録していくことのようです。そしてそれは単に、頭の中で意識して思い出すことじゃなくて、知らず知らずの内に自分や周辺に与える影響そのものにも当てはまるようです。
 最終回でもありますが、「貴方はこの世界の切れ端に過ぎず、しかもその貴方すら懐かしい切れ切れの誰かや何かの寄せ集めに過ぎない」ということはまさしくそういうことでしょう。これは仏教の真髄にも関連することで、自分とあらゆる全てとは干渉し合い、自分だけの何かというものは存在しないのです。全てを知ることも、全てを得ることも出来ない。だけど、今まで失っていったものも、存在しているものも全て、今の自分に作用し、巡り巡ってこの世界を照らし続けている。
 すずの生きる理由はあまり「こう生きたいんだ!」という能動的なものではなく、世界からの影響という受動的なものです。死を実感せずに生きてきたときから、死を実感して死のうとし、そして生と死の両方を実感して生きるとも死ぬとも思わずに、世界と交流していこうという風に変わってきたのだと思います。どのように生きるべきかとか死ぬべきかとかなんてわかるはずがない、ただ世界の切れ端としてこの世界の片隅に、ただ存在しているということなのでしょうね。
 
 ストーリー総括はこれくらいにして、漫画技法についていくつか言いたい。
 こうの史代さんは女の人ですが、少女マンガのような変則コマ割りをしないので読みやすいですね。基本に忠実で、しかも重要なシーンなどでは少し変なコマ割りにすること臨場感を出したりと、私は漫画素人ですがなかなかすごいと思います。特に印象的なのは、「この家はまだ焼けない」のページの、縦割りコマ。あそこは何となく、映画なら重低音が響くんだろうなあというような感じを受けましたよ。
 そしてストーリーと直結する技法である、「左手で描いたような背景」は、あれは私の短い漫画人生で初めて見た技法です。ギャグじゃなくてストーリーに直結しますからね。左手で描いたことで、右手のない世界、主人公の歪んだ心情、主人公から見た世界の歪みを表現していますからね。
 そして失われた右手による、すずの知らない物語の構築。これもまた漫画に深さを出していましたよ。本編とは違う作風、違う絵柄、これらはまさしく漫画にしか出来ない技法です。本編と違うように描かれている技法だから、その内容を逐一言葉で説明されなくてもそれが一体何を表しているのかがわかる。百聞は一見に如かずと言いますが、その一見とは、ロボットのように物を見て物の名前や形や位置を認識するだけでなく、感じ・印象・意味をまでもわかるということのようです。いやいやホント、こんな技法もあったのかと感心しっぱなしです。
 この漫画は新たな漫画の方法を示したり、失ったものに対する実感を得ようとしたり、そのために膨大な資料が読まれたりと、何から何まですごい漫画だと思います。老若男女全ての人に読める漫画だと思うので、家族やおじいさんおばあさんにも紹介して感想を求めたりするのも良いかもしれません。そうすればもっと、あなたにも「実感」が得られることになるでしょうね。
前・後編感想

漫画

Posted by YU