東のエデン 総括
東のエデンは物語構成やSF設定だけではなくて、色々な社会情勢もいっぱい詰め込んでいるので総括難しいっすわ…。
まあ一応書いてみます。間違っている部分も多いかもしれませんが、やってみよう。
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総括
まず最初に言っておくことは、このアニメはかなり新鮮な現代(2009年)のネット情勢を考慮した、若者(20代くらい)の悩みや問題を根本にして物語を描いていったということですね。というわけで、このアニメを総括するには、その2009年辺りのネット情勢を詳しく説明していく必要があります。
まず、ここで言う「ネット」とは、おそらくmixiやtwitter(東のエデン放映当時って日本ですでにtwitter流行ってたっけ?)ではなくて、基本的に「2ch」だと思います。まあ、自分がいくつかの強大なインターネット勢力の内、2chに属していたからそう感じる可能性もありますが。
例えば、劇中で滝沢は2万人ニートに対して2ch語(少々時代を感じるものですが)を使っていたり、板津のひきこもり理由が「ズボンが飛んでいったから」というのも2chによくある「服屋に来ていく服が無い」という定型ギャグのようにも思えたりしますしね。ということで、このアニメで「現代を表すもの」として、「2ch」が大々的に使われたと思います。
次は「年」の考察をしますが、2009年と言えば麻生政権から民主党の鳩山政権に変わった年です。東のエデンはその年の4月に放映開始で政権交代は8月ですので、その影響は本編には出ていないと思いますが、その前のネット情勢で大きく注目されたものが影響したと思います。それは、所謂「ネット右翼」です。もちろん私は朝日新聞などが使うような嘲笑的意味で使っているのではなくて、ネット上の「彼ら」を指し示す良い言葉が無いので、便宜上ネット右翼と言う言葉を使っていきます。ここでは広い意味での「ネット右翼」、というか「政治や日本全体の問題に注目している若者」とか、「そういう空気」というような意味でこの言葉を用います。
・自分が良い地位でない憤懣から、国家レベルのような大きな問題に注目する。
・若者が多く、年上は自分たちを搾取していると考えている。
・ある個人を英雄視してそれに集まっているのではなくて、ネット上の集団として存在。(個人さは感じられない)
さて、そんな所謂「ネット右翼のような空気」がこのアニメにどのように影響しているのかというと、
・滝沢の「ニートってのは搾取するおっさんに反抗するために、自宅で座り込みをやっている一種のテロ行為なんだろ?」というようなセリフ
・ネット上のサイトから現実世界の大きな問題に立ち向かう行動
・辻の被害者最強論(被害者を主張して良い汁を吸おうとしているやつらを嫌う動きは主にネット上で大きいですし)
・バブル後の、希望が最初から無い空気で生きてきたため、自分の将来や日本の将来に対して悲観的
・インターネットが発達したため大多数の匿名の本音を聞くことが出来る反面、匿名の空気の中で自分が集団の一部になっている
・馬鹿なことをすればネット上の全国津々浦々の人々から非難されるため間違ったことがしにくく、ネット上の空気の一部となっているためチャレンジ精神がなくなっている?
つまり、何事もクールで悲観的で無気力な面も大いにあるようです。最近のことですが、就活失敗で自殺する大学生が増えているようですね。「どうにかなるさ」というような思いが無く、自分の理想とする将来のビジョンを具体的に思い浮かべることが出来ないゆえに、生に対してそんなに執着も無いように思えます。
そんな、希望の無い閉塞感を若者が持っているとしたら、やはりその問題を解決したいわけで。じゃあ、具体的にその空気はどうすれば変えられるんだ?というような疑問を持ちますね。空気を変えるだなんて、具体的問題を解決することよりもわかりづらいことです。
だからこそ、その空気の変え方やその方向性とかを、このアニメで主張したかったものだと思います。
セレソンゲームの勝利条件は、ものすごく曖昧なものである「この国を救う」こと。国を救うだなんていう定義は一切無いし、人それぞれで全く思い浮かべるものとかは違いますし、思い浮かべること自体全く出来ない人も大勢いるかと思われます。もし日本にRPGに出てくるような魔王がいたとすれば、その魔王を倒せばこの国は救われることになるのでしょうが、そんなのはいないんですよ。
経済状態が良くなってもう一度バブルが来れば救われる?世代間の不平等などが無くなれば救われる?そういう平等とか経済とかは、すでに昔の人たちがやり続けている現在進行中のことです。昔に比べれば、日本は平等な国になったし、経済だって焼け野原の時と比べれば遥かに発展しましたし。昔はそういう分野に関しては、当時の世界全体でのトップレベルと比べればまだまだ発展余地がありましたから、頑張れば頑張るほど社会は変わりましたし、それゆえに希望も大きかったのでしょう。
しかし日本が色々な分野に関して世界の中でもトップレベルになった現在、かえって発展余地が少なくなり、理想を思い浮かべることが出来なくなったからこそ、「この空気」が発生したのではないだろうかと私は思います。それは国家として安定期に入ったことを意味していますが、不幸すぎる人間がいなくなった反面、上昇が少なくなったのです。
そうつまり、「この空気」というのは、生活レベルの絶対値ではなく、その増加度に支配されるのかと思います。上昇した結果ではなく、上昇している過程、それが「この空気」を打ち破るものかと思われます。
巨視的には、元官僚の物部は日本にいる優良な人間以外を排除し、そこから上昇してくるであろう人材の平均値によってこの国の空気を打ち破ろうとしていました。そして滝沢は、物部と比較すると不細工ながらも地道な方法で、一人一人に自分の力に気づかせるような方法でこの空気を打ち破ろうとしていました。
どちらかというと、前者は性悪説、後者は性善説に基づいているように思われます。「東のエデン」では滝沢が一応物部に勝利しましたが、物部の方法ももちろん間違っているとは言えません。ただ今回は、物語の落とし所として滝沢が勝ったようです。
滝沢の示した方法は、ある英雄によって民衆を率いていくのではなくて、一人一人が英雄であるような方法です。最初、このアニメでのノブレスオブリージュとは、100億円を持ったセレソンの義務というような、選ばれし者の義務を表していました。しかしラスト、このノブレスオブリージュは、一人一人の義務として、全員が持てる者つまりすごい人間だと認めるような意味となりました。しかし、単に「お前らはすごいやつなんだ」と言ったって、根拠が無ければ信じられもしません。
滝沢はテロリストという社会一般的には悪者になり、おっさんたちに要求を突きつけることで、自信も希望も無い若者たちがおっさんたちと対等に戦えるような雰囲気を作り上げました。金をもらうのも払うのも、本当は対等であるように、若者もおっさんも本当は対等だということを。
滝沢は悪者のように自分を扱っても、本当の意味では希望そのもの。頂点に立つようなリーダーというのはほとんどアイドルと同じようなもので、ほんの少しの失敗で信頼は大きく損なわれるものです。そんな、最も責任感と苦痛を味わうことを許容した彼は、紛れも無い救世主でしょう。彼は認めないかもしれませんが、庶民から見れば立派な救世主です。
おそらくこの物語の先、滝沢に気分的に乗っかることで自信を得た若者たちは、積極的におっさんたちと戦っていき、親離れするように滝沢の下を離れていくのでしょう。滝沢は、自分一人が全てを率いていくだけでは結局救われないということを、記憶を無くす前に知った、だから、一人一人に救世主の心を持たせることで、この国を「救おう」としたのでしょうね。
さて、現代のネット上では相互マスコミュニケーションによって、従来の新聞やテレビによる一方的なマスコミュニケーションは衰退していきました。新聞やテレビの嘘などを暴く多くの情報と交換が出来るようになり、従来の情報源を監視できる強い存在となったと思います。昔は一人がいくら努力したって覆すことができなかった嘘を、暴くことが出来るようになっています。そんなわけですから、今までにあった「ネット上は嘘ばかり」という風潮は弱まり、「テレビなどよりもネットのほうが正しい!」という風潮も若者を中心にあるかと思われます。
しかし、インターネットは「大衆」によって運営されるのですが、基本的に大衆は「多数派の意見は正しい」と思いがちです。ゆえに、その多数派の意見にいくらかの欠陥があったとしてもそれをすんなりと受け入れてしまう危険性もあります。最近の具体例を出すならば、ステルスマーケティングとかTwitterのデマ拡散とかですね。意志を強く持ち、全ての情報において疑ってかかるような強い人間なら大丈夫なのですが、ネット上の過剰な情報とすぐ出る答えによって思考することをあまりしなくなった大衆には、インターネットは決して良いものだとは言い切れない面もあります。
そんな時勢だからこそ、このアニメでは「一人一人が救世主である」として、その素晴らしい能力を認める反面、その力を責任を持って正当に扱うべきだということも主張したのではないでしょうか?一人一人が救世主だからこそ、全ての人間が力を持っているがゆえに、絶対正しいという人間もおらず、むしろ他の救世主を疑ったりもしてみろというのではないでしょうか?
一人一人のノブレスオブリージュとは、争いを無くすのではなくてむしろ争いを促進するかのような、戦後日本の「争いはやめよう」という綺麗ごとに反するような意味を持っているかと思います。しかし、争いは争いでもその方法を間違いさえしなければ、むしろ争いは民主的かつ希望のある幸せな社会を作り上げるために無くてはならないものなのではないでしょうか?そんな、「全体的な強さ」を、このアニメでは描いたように思われます。
ネット上の感想では、『続編作る気マンマンだな』とかいうようなものが多かったのですが、私はそれは的外れだと思います。このアニメは「物語だけ」を描いたのではなく、「社会」というものも描いたものでして、そして社会に終わりはありません。社会では永遠に問題は発生し、そして永遠に解決しようとするのです。
社会には終わりも始まりもなく、全て「過程」でしかありません。だからこそ、滝沢がやったことも、作中の人々がやったことも、ただの「過程」なのです。だから、具体的に「国が救われる」という結果のような状態にならなくとも、セレソンゲームは一応終わったのです。ただ、「過程」の方向性が少し変わったような「空気」が感じられるだけで。
「東のエデン」、それは、そうなろうとすることそのものによって作られるのでしょう。
総括の総括として、このアニメは作画もよくて、その他OPやアクションも美しくて、ただ単純に面白いという面もありますが、00年代後半の「空気」をネット上を観察することで上手く表現し、その問題点とこれから必要となるかもしれない「空気」を描いた、老若男女多くの人々に受け入れられそうなアニメだったと思います。
えっ?物語のメインに含まれる滝沢と咲の関係とか東のエデンシステムに触れていないって?オラ、知らねー!