風の谷のナウシカ7巻 感想&総括

ついに全てが分かる最終巻
世界の謎と宮崎駿先生の世界観
全てはこの巻に凝縮される


最終巻感想&総括
・ユパの死
英雄

ユパ・・・
お前は本当によくやってくれたよ・・・
 ユパの死では哀愁を感じずに入られなかった。彼は腐海一の剣士と呼ばれながらも、全てを暴力で解決しようとはせずに、ただひたすらこの世界の平穏を願っていた。
 これまで懸命に努力していた彼が、一番最後に成し遂げたことは、トルメキア軍と土鬼たちとの戦を止めるきっかけを作ったことだ。命と引き換えに。
 ユパへの敬意とともに、彼がやったことをまとめてみよう。
 ・腐海の謎を解こうとしていた。
 ・薬草を風の谷に運んだ。
 ・ナウシカと装甲兵と決闘を止めた。
 ・土鬼たちのオームの培養槽に被害を与えた。
 ・・・
やっぱりやめた。
なぜなら彼はいろんなことをしすぎているからだ。
風の谷のナウシカの主人公3人目と言えるぐらいの働きではないだろうか?
とりあえず言える事は、ユパはたいしたやつだということだ。
・念話に対する疑問
P95ではナウシカが念話で話している。念話と言えばオームやチククなどの超能力者の家系、森の人、墓の主、庭番ぐらいしか使えないだろう。一体いつからナウシカは自発的に念話を使えるようになったのか?
 最初の頃は念話で話しかけられたからそれに応対しただけだった。中盤ではチククがそばにいたからナウシカが念話をつかっていたかわからない。というわけで、ナウシカが念話を使い始めたのはP95からかもしれない。
 ではどうやって?
 単純な答えだが、ナウシカは念話に慣れたから使えるようになった、ということかもしれない。
 念話とは声に出して話すこととあまり変わらない。要は誰かに情報を伝達すればいいのだ。そんな特殊でないものを使えるようになったとしても疑問に思うだろうか?・・・いや、やっぱり思うな。
 森の人は、昔の蟲使いが森でずっと暮らすようになった人たちの子孫だ。つまり元々は普通の人間だったのだろう。そんな彼らが、現在念話を使えるようになっているのを考えると、念話を使うには特別な才能、血統など必要ないのではないだろうか。
 どうやって身につけたかは分からないが、何かして身につけたのだ。そして、ナウシカには念話の経験があるから使えるようになったのかもしれない。自分でもあまり腑に落ちていないが。
・オーマ
 オーマは言うまでも無く巨神兵だ。しかし彼は産まれたてで、世界を滅ぼした「火の七日間」を起こした兵器とは思えないほど、心というものがある。
 では巨神兵とはただの生物兵器では無いという事か?もしただの生物兵器なら心などいらないはずだ。ただ指揮官の命令に従うだけでいいのだから。
その疑問は読んでいくうちにわかってくる。
オーマが言うには、自分は調停者である。墓の主が言うには、神を作ったと。
 私が考えるに、つまり古代人は、終わりの無い戦争を終わらせるために巨神兵を作り、彼らに第三者としての立場で戦争に介入し、両者が納得行く形で戦争を終わらせたかったのではないだろうか。そのあと「火の七日間」が起こったのは、巨神兵が人間全てを滅ぼさせてしまえばいいと、答えを出したのではないだろうか。
 そう考える根拠は、オーマの言った台詞
 「和平とはお前たちの終わりの無い愚行を意味する言葉であろう。それを断ち切るために私は力を与えられた。」
彼は平和なんて必ず来ないことをすでに知っているのだ。戦争を無くすには全てを消滅させればいいことも知っている。トルメキア王も言っていたが「失政は政治の本質だ」ということも、善なる政府は無いことを言いたかったのだろうか。
 しかしそんな非情とも思える彼だが、小さな母ナウシカには従っている。調停者でありながら、ただ一人を愛するという行為は許されるものなのか?
 
 心を持つということは、やはり愛が必要なのではないだろうか。愛が無ければ、愛ある判断を下せない。そういう意味で、ナウシカを愛することは調停者としてはしなければならないことなのかもしれない。
調停者

・腐海と墓の主の目的
最初は死の森のような扱いだった腐海、実はこの自然は目的ある自然だった。
このことについて設定をまとめてみよう。
・腐海に充満している瘴気を吸うと、森の外の生物は死ぬ。
・腐海の中の動物を殺すと腐海中の動物が襲い掛かって来る。
・腐海の深部には毒が無い。
・腐海の菌を清浄な水で育てるとあまり大きくならず、毒も出さない。
・腐海の毒の原因は土?
ここまでがこれまでの巻の設定。この後が最終巻で分かること
ここからは生物全体が問題になる
・腐海の奥にある、腐海の尽きる地には豊かな自然がある。
・しかしそこでは人間は血を吐いて死んでしまう。
・今の生物は、逆に汚染が無ければ生きていけない。
・腐海は昔の人が汚染された土を結晶化し、無毒にするための装置。
・昔の人は人間や他の生物も変え、汚染に耐えようとした。
・全て浄化し終われば、腐海は自滅する。
・腐海の消滅は世界の浄化、そのとき生物すべても絶滅してしまう。
・そうならないよう、その技術は墓に記してある。
おだやかな人間の卵も残してある。
 つまり、腐海とは古代人が作った世界の浄化装置。古代ではそうしなけばならないほど、大地の汚染は深刻なものだったのだろう。そのとき彼らが苦心して考えたのが腐海。しかしそれでも毒が出てしまうので、それに多少耐えることの出来る生物たちも作った。なぜなら、世界が浄化し終わったときに、世界の再生の引き金を引くことが出来るように。
 再生の時には墓の技術は詩と音楽になるという。そして人間も、おだやかな人間が残り、世界は平和になるだろう。
 
 しかし、本当にそれでいいのか?
・ナウシカの生命論
 ラストシーン、ナウシカが墓の主に主張する。この主張は宮崎駿先生の主張と受け取っても良いのではないだろうか。つまり宮崎先生はこのことを言いたいがために物語を書き上げた。
 そんなナウシカと宮崎先生の叫びを、自分なりに考えていきたい。
 ナウシカは上記で述べた墓の主の計画に反発した。その言い分を要約するとこうだ。
「生命は生命のルール、滅びと再生で存在する。人間とて同じだ。滅びるときは滅んでみせよう。ただ私たちは正々堂々正直に生きていくだけだ。」
 ナウシカは、人間を存続させるのではなく、一つの生命としてヒトという種は生きていくべきだと主張する。清浄と汚濁こそが生命であり、苦しみや悲劇があるからこそ喜びやかがやきもある。
 私が考えるに、ナウシカは生命というものは全てに対立するものが含まれ、一方だけ存在するのは生命ではないということか。例えば、生があるから死があり、清浄があるから汚濁があり、悲劇があるから喜びがあり、滅びがあるから再生があり、光があるから闇があるみたいなことではないか。人間も同じように悪の人間がいるからこそ、善の人間がいるのだろう。
 だからこそ王は穏やかな人間の卵について、「そんなものは人間ではない」と言ったのだろう。
 墓の主は「生命は光だ」と主張するが、ナウシカは、
 
 光

闇の中のまたたく光。それはどういう意味か。
 墓の主が言った「生命は光だ」はわかりやすい。生命は完全な善であり、存続させることに何の咎めも無いということだろう。
 対する「闇の中のまたたく光」とは、またたくという言葉から考えると、生命は消えたり現れたりするということなのではないか。闇の中から生まれ、闇へ還る。それが生命の本質であり、光り続けている光とは全く違う。消えることを拒まないということだ。
 森羅万象、全てのものはいつかは無くなり、また新しいものが生まれる。祇園精舎の鐘の音、諸侯無常の響きあり。次の言葉も見てもらいたい。
 「私たちの神は一枚の葉や一匹の蟲にすら宿っているからだ」
 宮崎先生は日本の宗教、神教と仏教の思想に影響されているのが垣間見える。輪廻転生と八百万の神、個人的にもこれらの思想は気に入っている。日本の神も無敵ではないし、永遠でもない。永遠に存在し続けるものは無いと、日本人なら実感できるだろう。宮崎先生はそんな日本人的感覚を漫画に描写することが出来たのだ。だからこそ、ナウシカを読んだ人たちはこの物語を称えているのではないだろうか。
 少し話がそれたが要は、
自然体で生き、結果がどうなろうとそれを受け止めるべきだ。
・オームの血と墓の血
一番最後に出てきた最後の情報、青いオームの血と墓の血は同じもの。
これは何を表すのか?
 ここで注目したいのは、蟲ではなくオームの血が同じであること。つまり、墓と蟲よりも墓とオームのほうが似ているということだろう。オームは腐海の主とでも言える存在だ。腐海と墓を作った古代人たちは、技術の管理者として墓を、腐海の管理者としてオームを作ったのではないか。だからこそオームは他の蟲とは違って発達した知能を持っているのだと私は考える。
 なぜ青い血なのかというと、古代では再生能力が高い有能な血を作るときは血が青くなってしまうのかもしれない。
 で、ここでもう一つ
青き衣を着た使徒について
 中盤とラストシーンではナウシカは墓とオームの体液で服が青くなっていた。そしてどちらとも伝説に従い、金色の野に降り立った。どの状況でも友愛の精神があった。一方はオームと、もう一方は人間たちと。つまりナウシカは言うまでもなく青き衣を着た使徒だ。
かつてユパは、青き衣の者は時空を超えて現れる人物か?というようなことを言っていた。
もしそうなら、以前の青き衣の者はオームと墓のどちらの体液で青く染まったのか?
 オームの体液なら、オームの傷を直そうとするとき、もしくはオームを殺そうとするときにつくことが出来る。しかし、後者ではオームとの友愛をはぐくむことが出来ず、青き衣はオームを怒らせた張本人として人民にねたまれるので没だ。
 墓の体液をかぶるには墓を傷つけなくてはならない。大砲や爆弾では傷一つつかない。巨神兵でやっと傷をつけられるので、墓で血をかぶった説は説得力が無い。が、しかし、4~6巻感想で書いたように皇兄ナムリスが墓に何かをしたように、墓の破壊工作活動で体液をかぶり青き衣になった者もいるかもしれない。
 一応二つ考えたが、これ以上の結論は出せない。何か設定資料集でもあればいいのだが。
 最終巻だけでここまでかけるほど、この巻は濃密であった。宮崎先生の考える哲学を、私が考えることによって大分印象が変わった。ここまでじっくり思想の統合をしていくのは久しぶりだ。ただふ~んで終わるのではなく、おぉ~と終わる感じだ。ナウシカ哲学は自分の心の中で生きていくことになるだろう。できれば他の人にもこのナウシカ哲学を教え、議論などをしてみたいものだ。
 自然と生命と人間。ナウシカ哲学ではこの全てがイコールで結ばれるのではないか。
 滅びは決して悲劇ではない。そして悲劇は決して不幸ではない。楽しいことやつらいことがあるからこそ生きることは多様で、面白いものだと私は考える。
1~3巻感想
4~6巻感想

風の谷のナウシカ 7 風の谷のナウシカ 7
(1994/12)
宮崎 駿

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漫画

Posted by YU