平成狸合戦ぽんぽこ 感想

2020年4月23日

平成狸合戦ぽんぽこ  制作 スタジオジブリ
 1994年に公開された、スタジオジブリ制作・高畑勲監督のアニメ映画、「平成狸合戦ぽんぽこ」についての感想を書いていきます。
 少々古いですが、現在でもテレビで放映されることがあります。今回はDVDをレンタルして視聴しました。

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(2002/12/18)
上々颱風、野々村真 他

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 あらすじは、東京の多摩ニュータウン計画ですみかを奪われそうになっているタヌキたちが、どうにかして自分たちの居場所を守ろうと四苦八苦するという感じです。
 まずグラフィックから言及します。流石「となりのトトロ」のスタジオジブリ、古き良き日本の風景を見事に表現しており、里ののどかで平和な生活を視聴者は十二分に感じられることでしょう。季節の花々や昆虫たちの姿など、他には都会の風景もありますがやっぱりそれもなかなか美しいもので、この映画に登場する一枚絵を美術館に飾ると、それだけでも立派な作品となりそうですよ。
 さて、この映画にはもちろんタヌキがいっぱい出てきますが、他の自然とは異なり、タヌキはデフォルメされて描かれることが多いです。映画が開始して初めてデフォルメタヌキを見ることになるのは、タヌキ同士の合戦のシーンですね。タヌキの姿には三段階あり、人間の前では普通のタヌキの姿、普通の生活シーンでは二足歩行のずんぐりとした姿、そして祭りや弱気になっているときなどは最もデフォルメされた姿となります。普通のタヌキの姿は何ともタヌキらしいですが、普通の生活シーンでの姿は何ともコミカルですね。この映画に出てくるタヌキののん気さなどをよく表現しているかと思われます。
 
 音・音楽もかなり素晴らしい物でした。水のせせらぎや鳥の鳴き声などの季節を感じさせる音にはかなりのこだわりを感じました。
 エンドテーマ「いつでも誰かが」は大変素晴らしいもので、個人的にはジブリ映画で流れる歌の中でトップクラスに位置するくらいのものでした。かなり前向きで元気が出てくる歌で、後述しますがストーリー最後の雰囲気に見事に合致したものだったと思いますよ。
 
 ではストーリーの感想に移ります。ネット上での感想では、「この映画は環境問題を扱っており、少し説教臭い」というものが多かったです。しかし私は、この映画の主題は環境問題だけではないと思うのです。
 まず言いたいのは、この映画ではのん気さ・お気楽さをかなり前面に押し出しているということです。人間側に死者が出たりするなどというところは結構深刻なように思えるのですが、しかし映画に出てくる数々のパロディだとか、ノリが良く不真面目なタヌキたちのシーンも多いので、視聴者は「本当に合戦か、これは?」と少し疑問に思うでしょう。しかも、ナレーションとタヌキの行動にギャップが存在するような構成としているため、さらに視聴者は変に思うか笑うかのどちらかでしょう。ナレーションが「会議は~」とか言っているのにタヌキはトランプしていたりするシーンなどのことですね。
 「住処を奪われたタヌキが人間に反抗する」というだけを見れば、環境問題などを含めたかなり真面目な問題をテーマにしているんだと、視聴者は思うでしょう。環境問題などを最も大きなテーマにするのなら高畑監督ももっとシリアスに作るでしょう。しかし、この映画はあまりシリアスではないのです。なので、この映画は環境問題が主題というわけではないと私は思うわけです
 
 作中、タヌキたちはこんなことを言っています。

 「人間も少しは残してやる」
 「僕ら花や木と同じなんだ」

 これらのセリフは、作中でのタヌキの位置づけを考える上では非常に参考になるものかと思います。
 前者は人間を完璧に排除しようとしたタヌキが人間の食物に釣られて言ったセリフですが、これは強大な力を持った人間たちが自然に対して言うようなセリフですね。つまり、タヌキたちは人間から見れば「自然」でありますが、タヌキにとっては所謂「自然」という概念は存在しません。環境問題を扱うとき、生態系などのような大きな視点が必要となるわけですが、もしタヌキが「自然が遣わした自然を代表する生物」であるのなら、もっと生態系全体のために人間をどうするかとか考えるべきですね。オババが山の生物のことについても言及していましたが、しかしそれは言及するだけで、行動として他の生物のために何かしたかというと別に何もしてないでしょう。
 後者のセリフは山の季節が春となって、タヌキたちにも発情期が来たときに出てきたセリフです。普通、私たち人間は、「タヌキなんだから花や木のような自然と同じだろ」と思っているでしょう。しかし、作中のタヌキは、自分たちは完璧な自然の一部としては捉えていないのです。さながら、人間≠動物と考える人間のようなものですね。つまり、タヌキは「タヌキ=タヌキ」であり「人間=人間」として捉えており、人間が盲目的に「自然を守ろう!」と言うようなことと比較すると、もっと直接的かつ主観的にものを見ているのです。「俺たちは自然の一部なんだ!」なんてことは考えておらず、自分の周りという意味での「環境」を守ろうとしているのですよ
 
 ラスト、ぽん吉が視聴者に以下のように語り掛けます。

「テレビや何かでいうでしょ?開発が進んでキツネやタヌキが姿を消したって。あれやめてもらえません?
そりゃ確かにキツネやタヌキは化けて姿を消せるのもいるけど、でも、ウサギやイタチはどうなんですか?自分で姿を消せます?」

 このセリフはラストに登場し、わざわざ視聴者に言い聞かせるように言っているので、この映画の中では最重要なセリフでしょうね。一見、現実社会に対するメタ的な発言でしかないように思えますが、私の解釈ではそれだけでは済まされません。
 ここで大事なのは、ぽん吉は「姿を消した=変化して消えた」と思っているのです。それに対して私たちは、「姿を消した=生息しなくなった」と思っています。「キツネやタヌキ」だって、ぽん吉にとっては「キツネやタヌキなどの化ける動物」であり、私たちにとっては「山の中で生きている生物」だと捉えているでしょう。
 「自分で姿を消せます?」と提起していますが、これは「お前たち人間が殺して消したんだ!」という非難ではなくて、本当に単純に「化けて姿を消すことは出来ない」ということなのです。つまり、ぽん吉の思いの根底には、「みんなどっこい生きてるんだよ」ということがあるのです。
 現在、私たちは開発行為を行っていくことで、「自然は無くなった」と思っておられる方は多いかと思います。しかしですね、「自然な状態」とは何でしょうか?一体何をもって定義しますか?体重何kg以上の動物が何頭以上生息すれば良いでしょうか?植物バイオマスが何トンほどあれば良いでしょうか?
 つまりですね、「自然を守ろう」と言っても結局それは定義できなず、その方法も定義されていないので、その行為は偽善もしくは「気晴らし」みたいなものなんじゃないかと思うのです。「自然を守る」という行為で、この世界全てを必ずユートピアに出来るでしょうか、いや微妙でしょう。だけれども、私はその行為を否定しません。その行為が楽しかったりするのならそれでいいんじゃないかと思うわけで、作中に登場したタヌキのように、世界全体のことなどなんか考えずに、のん気にやりたいことをやればいいんじゃないかと思うのです。
 「人間はタヌキだったんだ!」というセリフの後に、「遊び心がないタヌキはタヌキじゃない」というセリフもあり、さらに後には「こんな窮屈な環境でよく人間たちは生きていけるな」というセリフもあります。
 例えば「自然を守らなければならない」などのような、強迫観念にさいなまれて私たちは生きているかもしれません。客観的に見れば、立派で大きな信念を持った人はすごいと思うでしょう。でも、本当にそのような頭の中での理想を追い求めていったりすることは、幸せなのでしょうか?
 タヌキたちの生活の気楽さに、私たちは見ていて羨ましくなりませんでしたか?確かにすみかを追われたり交通事故で死ぬなどは悲惨だと思うでしょう。しかし、鬱病の人が増えたり、毎年3万人の自殺者が出るこの人間社会とを比べると、どちらが良いかだなんて決めることは出来ないと思います。
 この作品では環境問題を表向きにしながら、実はのん気さや気楽さがあり、めげずに前向きに「どっこい生きる」ということを表したかったんじゃないかと私は考えます。環境問題がテーマなら、タヌキたちは負けたのでラストはバッドエンド風になりますが、エンドテーマはひたすら前向きです。つまりそういうことなのでしょう。
 タヌキは比較的臆病で弱々しい動物です。銃声でびっくりして気絶したりしますからね。そんなあまり強くない動物だからこそ、「どっこい生きる」ということを表すのに良い題材だったんじゃないかと私は総括します。
 

映画

Posted by YU