四国遍路 総括

39日間、1125kmの歩き遍路の総括
まとめるべきものは多いので、歩き旅での宿泊や食事などの「技術的総括」、長時間の歩行による影響として「肉体的総括」、そしてこの遍路旅で得られた精神上のものとして「精神的総括」、この3つに分けてまとめていきます。
技術的総括
使用金額:生活費約3万円+納経代約2.5万円=5.5万円
荷物の重さ:最低は12kg、最大では水2.5kg+米2kg+食料1kg+12kg=18.5kg
 私は、テント泊自炊型歩き遍路でしたので、荷物は重くなった反面生活費を安く抑えられました。ガイドブックなどでは大抵、「民宿泊まり型歩き遍路の生活費、~十万円かかる」としか書いておらず、テント泊自炊型ならいくらかかるのかわかりませんでした。大体このくらいになると思います。
 宿泊に関して、二日目で遍路小屋(東屋型)に宿泊してみたこと以外、全ての日でテントを用いて寝ました。台風が2回やってきましたが、ちゃんとテントと柱などをロープで繋げておけば耐えられると思います。テントが安物ならきついかも…。
 テント泊では設営する場所が肝心です。まずは、人通りがほとんど無く、人目につかない場所を探す必要があります。そして、テントを建てられるほどの、石でごつごつしておらず、草が生えすぎておらず、傾斜が緩やか~平坦なスペースを探す必要があります。もしそれらの作業を怠れば、その場所を追い出されたり、寝苦しい夜を過ごすことになります。
 男性の歩き遍路には遍路小屋泊まりの人が多かったですが、私としてはテント泊まりをおすすめします。そのメリットは以下の通り、
①プライベートな空間を持てる
②風雨が強い日でも大丈夫(東屋だと吹き込んでくることもしばしば)
③暖かい
④光、音などを緩和できる
⑤風が強いときでも自炊できる
⑥蚊などの虫に悩まされない
⑦設営適地があればどこでも泊まれる(もちろん適地は遍路小屋よりも多いです)
…などですかね。デメリットとしては、
①重い、かさばる
②設営、撤収が面倒くさい
③購入費用が必要
④真夏は暑い
という感じでしょうね。デメリット①、②は慣れれば大丈夫と思いますが。さあ、これを見ている人、テント泊と小屋泊どちらかにするなら、どっちがいい!?
 食事に関して、えー、私は外食は1回だけ行っただけで、その他の全ての食事は、自炊もしくは出来合いのものでした。ちなみに4つ足は食べないようにしておきました。鳥と魚は食べましたが。
 基本的に、朝食はご飯とおかず、もしくはパンとコーヒー。昼食はパンやお菓子。晩御飯はご飯と豪勢なおかず、残ったら次の日の朝のおかずとなりました。料理方法は、醤油や味噌で炒めたりすることが多かったです。醤油、味噌は最強すぎる…。
 料理道具や米を担いでいたので、荷物は重くなりましたが、自炊はストレス解消にかなり役立ったと思います。自分で火を通したり味付けしたりする料理は、人によっては面倒くさいだけかもしれませんが、私は日頃から自炊を行っているので基本は知っていますし、それなりに好きです。
 歩き旅での自炊では料理道具の種類が少ないので料理方法自体は単純なものになってしまいますが、スーパーなどに行けば多種多様な食材を購入できるので、結果としては毎日違ったものを食べることができます。ですので、歩いているときに「今日は何を食べようかな~」と献立をゆっくりと考えて楽しむ、ということもできます。
 数日の旅ならパンやレトルトだけでも飽きずに食事を行えるでしょう。しかし、遍路旅は40日前後もの長旅になります。いかに飽きずに食事を行い、効率よくストレスを解消できるか、ということも重要となってきます。ですのでその一環として、私は自炊をオススメします。まあ、料理が苦痛なら別に良いけどね…。
肉体的総括
体重:56kg→49kg
体脂肪率:14%→10%
 う~ん…体重が減った割りに体脂肪率があまり減っていない…。ずっと運動していたから筋肉が増えたと思ったのですが、そんなに増えていないようです。食事量が少なくて筋肉の一部もエネルギーとして使用してしまったかもしれません。
 今回の歩き旅で最も重要な肉体の部分は、足の裏でした。歩き始めた当初は、この足の裏のしびれやマメの痛みが、1日の歩行距離を決めていました。マメは1日目から出来始めました。完治したのは20日目くらいかな…。
 日頃から相当の距離を歩いている人以外なら、歩き遍路で必ずマメは出来ると思っても良いです。ですので、このマメとどうにかして上手く付き合っていかなければなりません。マメが出来たら、さっさと火などで消毒した針で刺して膿を取り除き、消毒液をかけて、靴下を履きましょう。テープを貼るかどうかは迷いどころですが、いったん潰して膿を取り除いても、歩いているときに膿はどんどん出てきます。その膿を溜めないためにテープを貼らず、靴下等に吸収させてしまうのも手です。寝る前はきちんと潰して寝ましょう。
 痺れは、ホームセンターなどで中敷きを購入して装着すると、かなり良くなりました。しかし接地面が変わって新しくマメが出来たりするのには注意しましょう。
 足の裏の痛みは肩や腰と違って、慣れてくればかなり改善されてきます。最初は苦労しますが、慣れるまで我慢です。
 荷物が重い場合、肩や腰の痛みは無視出来ません。この2箇所の痛みは、ウエストベルトやチェストベルトなどを上手く調整すれば問題になりにくいですが、長時間腰骨にウエストベルトをきつく締めていると、だんだん針で刺されるような痛みがしてきます。痛いので緩めると、次は肩が痛くなる…。
 肩や腰のベルトの調整方法は個々人によって大きく変わるので、各々でどうにかしないといけませんが、私はこうしました。腰が痛くなるとウエストベルトの位置を上下に動かして、ザック全体のベルトをそれに合わせて、腰骨の痛みを緩和させました。
 足裏の痛みは徳島や高知で悩まされますが、肩や腰の痛みは愛媛辺りで悩まされたので、おそらく肩や腰は慣れだけでは対処できないのだと思います。
 帰宅したとき、足の裏がずっと履いていた靴の形に合うような形になっていたので、裸足でフローリング歩くのが辛かったです…。そういう状態が3日くらい続きましたよ。1日に何十kmも歩いていたのに、家の中でほんの数歩歩くのが辛くなるとは!
 ずっと歩いていたからか、運動量の割りに食事量が少なかったからか、帰宅したときには妙に寒かったです。新陳代謝が少なくなって、身体があまり熱を出さずにいたからかもしれません。家族の中でも暑がりの私が、帰ってきたら最も寒がりになっていましたよ。こんなこともあるんですね。
精神的総括
 私は今まで生きてきて、読経を行ったことは一度もありませんでした。寺に参ったりしても、お賽銭を入れて手を合わせるだけ。そこに宗教的意味なんてありませんでした。ただの習慣に過ぎませんでした。
 しかし、今回遍路旅を行って88箇所の寺で参拝を行ってみたところ、「何だか良いもの」に思えました。蝋燭と線香に火をつけ、お賽銭を入れて納め札を納めて、読経を行う。こういう一連の作業は、確かに最初は作業でしかありませんでしたが、旅を進めていくうちに、その作業によって何だか心が洗われるような感じになりました。
 私は意味も示しているポケットサイズの般若心経の教本を持っていき、ただ読むだけでなくその意味も理解しながら読んでいきました。「遍路で寺に参るときは、最低でも般若心経を読んでおきなさい」と言われるように、遍路での読経の中でも最も重要な経典なのでしょう。
 般若心経は「空」を示したものであり、誰が神かとか、誰が偉いかとかは一切書いてありません。ただ純粋に哲学であるようです。形あるものは無いものと同じ。無いものは形あるものと同じ…。全てを「無い」としており、そして虚無感すら無いともしています。
 空の概念はやはり普通に生きていく中では実感しにくいと思いますが、私個人としては、つまり「全てを何かとして断定することは出来ず、全ては異なりしかも移ろうものである」、というように感じました。
 最終日で私は、山を「山」、空を「空」というような言葉で表せるように世界を見るのではなく、ただそのままの姿をそのまま受け取ることが出来たときがありました。般若心経での「空」って、そういうことなんじゃないのかな?と思います。
 歩き遍路を始めた具体的な理由は無かったのですが、いろんなお寺に参るんだから、形式上でいいから願い事を決めようとしました。で、その結果考えついたのが、

「この命尽きるその時まで、心身ともに健康でありますように」

ということにしておきました。これは単に長生きしたいというのではなくて、「衰弱して死ぬのは嫌だ、パッと死にたい」という意味です。私はただ、面白く、太く、生きてみたいのです。
 歩き遍路をやっているとき、よく「どうして始めたの?」と聞かれました。私は全て「何となく」と答えました。が、相手は腑に落ちない様子でした。
 私の「何となく」っていうのは、実は「空」の概念を乗せていたのですが、そういうことを指摘する人は誰もいませんでした…。つまりですね、私にとっての今回の遍路旅の理由は、「あなたはどうして生きている?」に対応するような答えだったのです。生きる意味なんて誰にもわかるわけがない、わかる必要もない。だからこそ、究極的に全ての人間は「何、というものもなく」生きていると思うのです。私のやった遍路旅だって、この人生や世界全体で見れば意味なんて無い、そういう意味で生きることと等しい、と考えています。
 バスツアーでお年寄りの方が大勢で遍路を行っていますが、むしろ私から言いたい。「あなたはどうして遍路をするの?」と。私の言う「何となく」以上の答えをしてくれるのでしょうか?
 
 
 実際、歩いているときは辛さ8割、楽しさ2割ほどでした。毎日身体の痛みに耐え、毎日水や食料の確保に苦心し、また明日も同じ苦労をしないといけないのか…という精神的苦痛もありました。「楽しかった?」と聞かれれば、「楽しかった」とはっきり言うことは出来ないというのが正直なところです。
 しかし、今から思い返すとですね、楽しさ8割、辛さ2割のように思えるのです。歩いているときの苦痛を忘れたわけじゃないのに、何故か旅が終わった今では、あの旅がものすごく純粋で崇高なもののように思えるのです。そう思えるのはおそらく、日常生活ではあの旅の日々ほど、ある一つの目的に向かって純粋でありはしないからなのでしょうね。
 辛く、それほど面白くないが、目的を達成するために純粋で、後から崇高なもののように思える人生と、その時々は楽だけど後から思えば何をしていたのか忘れてしまうような人生、どっちがいいでしょうか。
 安定を求めて社畜になって心身を破壊するようなのは絶対嫌だ、安定のために夢を諦めて「普通」の人生を送るなんてのもつまらなく思っているので、やはり私は辛くても純粋に頑張る人生のほうが向いているのかもしれません。
 
 最後に、人生の目的を知りたいとか人生に意味なんてねえよという人に歩いてもらいたいです。もしかしたら、ある目的を果たすために純粋に生きていく美しさがわかるかもしれないので。
 色々親切なことをしてくれた人に対しては、あえてここではお礼を言いません。行動で示していくつもりです。

四国遍路

Posted by YU