硝子戸の中 感想

硝子戸の中   作 夏目漱石
 1915年1月13日から2月23日にかけて、朝日新聞に掲載された、夏目漱石最後の随筆だそうです。
 この作品の後は「道草」と「明暗」のみしかありません。身体が弱って死が間近に迫っている、夏目漱石の晩年らしい作品のように思えます。

硝子戸の中 (新潮文庫) 硝子戸の中 (新潮文庫)
(1952/07)
夏目 漱石

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 朝日新聞に39日間、毎日1篇ずつ掲載していたようで、ほとんど1篇1篇で違うことを書いています。というわけで、この単行本では、全39篇の構成となっています。
 文庫本の後ろに載っている解説によると、話の分かれ方としては、全部で31篇というふうに構成されているようですね。一つの話は多くても3篇、単行本のページ数は100ページほどなので、一気に読むこともちょくちょく読むことも可能です。と言っても、記憶の断片が繋がっていくように、1篇1篇が微妙に繋がっていたりします。というわけで、一応流れはあります。あっち行ったりこっち行ったりですが。
さて、感想です。
それぞれの編で感想を書くのは流石に無理なので、全体的な雰囲気をば。
 「硝子戸の中」とは、漱石が病気になって身体を休めている、自室のことを言っています。この中に登場する話の中では、「今」を表す編もあるのですが、そのときの漱石はほぼ全て硝子戸の中にいるような状態です。
 硝子戸の中にいながら、その中で自ずと起こるイベントを書いたり、記憶・精神の意味で周囲を見渡して思い出話をするような感じで、この随筆は続いていきます。晩年の漱石の精神や記憶をそのまま、映し出したかのように思えます。
 色々な出来事やそれに関係する人を思い出すことが多いのですが、思い返す人の多くがすでに死んでいたりすることが、印象に残ります。何回も病気になって、死にそうになっていた漱石だからこそ、記憶の中の死人のことを考えたり死生観の考察を行ったりしようとしているようにも、傍からは見えました。
 思い出と移りゆくこの世のこと以外には、漱石なりの人との接し方とかそのときに生じる問題とかのことも書かれていましたよ。例えば、

「今の私は馬鹿で人にだまされるか、或は疑い深くて人を容れる事が出来ないか、この両方だけしかない様な気がする」

この「硝子戸の中」では、有名になった漱石が多くの「変な人とのやりとり」もしくは「変なやりとり」をしたことが書かれていますが、その出来事は上記の言葉と関係があるように思います。
 やはりこの社会の中では自分とは違う思考回路をしている人も普通に暮らしているし、もし仮に全ての人が自分と同じ思考回路になっても相手を理解出来ないときもあるかもしれない…。いや、もしかしたら漱石も馬鹿な人を悪意無しに騙してしまったりしてしまう恐れもある?漱石のこういう悩みは、「気にするな」とか「そういうもんだ」とかで済ますべきなのでしょうか、それとも他に正解があったりするのでしょうか。
 
 
 ラストは、硝子戸を開け放って、春が来たことを感じ、時が流れているのを感じて終わります。最初は「書斎にいる私の眼界は極めて単調でそうして又極めて狭いのである」とありますが、そのときと比べれば、少し明るい感じがしますね。
 こういう希望を感じる終わり方は、まあ、物語とかではお約束です。しかし、いろんな出来事や人を思い返して、自分はどんな人間かを考えて、それらをつらつらと書いてきた漱石は、新しい出来事を味合わなくても、何かしら変わったんじゃないかと思います。思い返すという行為だけでも、それは今の自分に影響し、大事な何かを再認識させたりするような、実際的な効果もあるんじゃないかって私は考えます。ただ切ない感じになるだけでなくて、ね。

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Posted by YU