寄生獣10巻 感想&総括

本日ハ晴天ナリ
けれども私はひきこもる
寒くてどっか行く気無くすわぁ~


10巻
 10巻は最終巻。最終巻らしく、この漫画のテーマや作者の伝えたいこと、これまでの疑問が全て載っていると思います。これまで紡いできた物語の最後の結び、そこには一体何が待ち受けているのでしょうか。
 ミギーと別れてシンイチ一人だけで後藤から逃げました。後藤を倒す策は失敗し、ミギーはシンイチを助けるために、自分を犠牲にして逃げさせました。ミギーに思いやる心が生まれたことは大変驚くべきことですが、そのおかげでシンイチはその行為に深く感動し、ミギーと分かれてしまったことを悲しみます。
 彼は美津代というおばあさんの家で休み、再度後藤を倒そうと試みます。もちろん彼一人では勝てっこないということは彼自身にも分かっていることですが、「もうどうでもいいや」というような感情のおかげで恐怖感を無くしていました。そのときのシンイチの心理状況は漫画のほうが詳しく解説しているので、考察するまでも無いですね。
 戦闘はやはりかなりの劣勢で殺されそうにはなりましたが、焼却物が付着した鉄の棒を後藤に差し込むことでなんとか勝つことが出来ました。なぜそんなので勝てたのかというと、焼却物は猛毒でありそれが体内に入ったことにより後藤以外のパラサイトが毒から逃れるために、後藤のコントロールに従わなかったためです。
 そのとき後藤に取り込まれていたミギーはシンイチのもとへ帰りました。ミギーは後藤に多大なダメージを与え、一撃で後藤を倒しました。
 しかしここで疑問が生じます。ミギーは後藤に取り込まれたとき、「そのまま最強生物・後藤として生きていくのもいいかもしれない」と語っていました。ではなぜそうしなかったのでしょうか?
 二つ考えてみました。一つは、やはりシンイチに情が移り彼を殺させないために、そしてもう一度彼と一緒に暮らしていくためにシンイチのもとへ戻った、という説です。もしそうならミギーはすでにパラサイトとしての感情を超え、人間と同じぐらいの情が育っていたということになります。このことはこの漫画のテーマにも合致していると思います。
 二つ目の説は、たとえ最強生物の後藤であろうとも、人間によって殺される恐れがあるから、というものです。「人間サマにゃ勝てないってことさ・・・」という台詞は、後藤を倒した猛毒が人間社会から出たゴミだったことから発した台詞です。そして田村玲子も「人間をみくびってはいけない」と人間の強さを認めているようなことを言っていたので、一部のパラサイトたちには、人間に勝つことは出来ないと悟っていたのかもしれません。ですから、例え最強生物でもいつかは人間に殺されるかもしれないと考えたのではないでしょうか。この説も駆除されつつあるパラサイト、という話の流れに合致していると思います。
 よく考えても結論は出てきませんでした。
 後藤は死んだかのように思われましたが、まだ生きていました。しかしその身体は内臓を露出し、今にも死にそうなものでしたが、後藤に宿っていたパラサイトが必死に元通りになろうとしていました。このとき、ミギー自身が殺さずに、シンイチにとどめを譲ったのも注目するべき点でしょう。なぜそうしたのかは前述にあるように、ミギーに心があったからでしょう。
 シンイチは迷います。パラサイトは本当に間違っているのか、この生物に人間の都合を押し付けていいのか。
 しかし彼は後藤を殺すことにします。なぜなら彼もまた、ただの一匹の生物だから。
生きるために
 人は、「地球のために」なんていう台詞を吐くほど何か勘違いしています。地球は泣きも笑いもせず、どんなに自然が汚されようとも、ただじっと黙っているだけです。
 おそらくシンイチも、自分がそんな偉ぶった人間だと感じたのでしょう。自然界全てのことを考えて後藤を殺さないことは、やはり人間が考えたものであると、そう考えたのかもしれません。だからこそ彼は自分はただの一匹の生物として、自分を守り、家族を守るために後藤を殺そうと思い至ったのだと思います。
 戦いが全て終わったとき、ミギーはシンイチから離れます。ミギーの後藤と一緒になったときの魂を交換したかのような、自分が他人になり他人と全てを共有した体験から、ミギーは眠りについて、思索を続けることにしました。つまりミギーは半永久的に思考するために、シンイチとお別れをすることにしたのです。
 ミギーが言うには、「同じ構造の脳をもつ人間ですら点でしかお互いを知ることは出来ない。もし全てを共有することが出来たのなら、想像を絶する世界が見え、聴こえるだろう」とのことです。
 もちろんシンイチは止めました。しかし、ミギーは行ってしまいました。
 
 それから一年後、シンイチは浪人生となっていました。彼はいろんな体験から、この自然界のありかたなど、なにか超越的なことを考えていました。
人間の心には人間個人の満足があるだけなんだ。
でもそれでいいし、それが全てだと思う。
あいつらは狭い意味じゃあ「敵」だったけど、
広い意味では「仲間」だったんだよなあ。

寄生生物
 動物も、人間も、パラサイトも、全て何かに寄り添って生きているのです。田村の言っていた、「私たちはか弱い。それのみでは生きてゆけない細胞体だ」というのはこの考えからだったのでしょう。
 例え自分ひとりでも大丈夫だと言っても、他の生物がいなければ食べることも出来ずに死んでしまいます。
 この世の中の全ては、全ての何かに関わっている。そのことを伝えたかったのだと思います。だからこそ人間もパラサイトも、殺しあう仲にある敵ですが、この地球で生きていく同じ生物としての「仲間」であるのでしょう。
 いなくなったと思われたミギーですが、彼は現れて、人を救いました。
人間賛歌↑クリックで拡大
 自分が生きるために人間を「肉の壁」なんてことすら言ったミギーが、ヒトという生物を「すばらしい!」と称しています。彼は人を、心に余裕のある生物だと言っています。
 人もパラサイトも全て仲間だと考える人間のシンイチ、人間をほめるパラサイトのミギー。これはとても興味深い対となっています。お互いがお互いを認めている関係、私にはそう考えられます。
 シンイチにはミギーが必要であったし、ミギーにもシンイチが必要でした。その小さな必要としあう関係を、自然界にも存在する必要としあう関係まで広げ、その関係のもとで生きていく生物たちを寄生獣と呼んだのでしょう。
総括
 「寄生獣」
 この言葉のイメージから私は最初どう考えていたのでしょうか。冒頭から出てくる寄生生物を、寄生獣だろうかと考えたこともあります。そして人間のエゴや広川市長の演説を聞いて、人間こそが地球に寄生して宿主を衰弱させる寄生獣だと考えたこともあります。しかし、この発想はこの漫画を読む前からも私の心の中に少しながらもあった思想なので、あまり驚くこともしませんでした。
 真実は私の想像を遥かに超えていました。
 寄生獣とは、寄り添って生きる生物たちのこと。
 確かに「寄生」の言葉は寄って生きると書きますが、普通私たちは寄生生物に対してはいい印象を持ちません。彼らは宿主に勝手に寄生し、勝手に栄養を奪ったり、病気にさせたりします。私たちの体を狙い続けている細菌やウイルスがいい例です。
 この漫画はその悪いイメージを払拭しました。
 この自然界には食物連鎖というものが存在します。植物は光合成をして成長しますが、動物に食べられます。そして植物を食べる動物を食べる動物もいます。その動物も食べられる恐れがあります。そして動物の不消化物や死体は土に還り、そこで分解されます。その分解されたものは植物の栄養となります。
 この連鎖を逃れている生物は何一つありません。全て、何かを摂取し、何かに摂取されます。彼らは全てそれのみでは生きてゆけない細胞体です。
 全ての生物が他の生物を必要としているのです。
 そしてそのような生物的な「寄生」だけを、この漫画は描写したのではありません。人間同士がお互いに寄り添って生きていくこともあれば、パラサイトと人間との絆を描いたこともあります。考えてみれば、人間同士でも共有できる感覚は少ないのに絆を持つことが出来ることから、パラサイトと人間が絆を持つことが出来たのは不思議なことではないのかもしれません。
 そのようなことが出来るのなら、他の生物とも絆を持つことが出来るのでしょうか。いや、「絆を持った」なんて感覚のそれこそが人間のエゴかもしれない。けれどもやはりそんなことを言ってもしょうがないのかもしれない。人間も一つの生物だから、その気持ちもやはりヒトという生物の内から来るもので、その思想を信じることは別に正しくも悪くも無いことかもしれません。
 
 どんな凶悪犯も、どんな凶悪な生物でも何かと繋がり、何かに寄り添って生きている。ノミやハエでも人と繋がって生きている。人も、人同士、あるいは他の生物とも精神的に繋がることが出来る。
 「寄生獣」というタイトルは、寄り添って生きる獣と書かれます。これは、人も獣と同様、そして獣も人と同様、何かに寄り添い生きることを指しているのでしょう。
 この漫画の人気は、その超越的な思想をパラサイトととの戦いで見事に描写しきったことが評価の一因でしょうね。
1~3巻 感想
4~6巻 感想
7~9巻 感想

寄生獣 (10) (アフタヌーンKC (107)) 寄生獣 (10) (アフタヌーンKC (107))
(1995/03)
岩明 均

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Posted by YU